水を張った一面の田で蛙が鳴き始めるのは晩春の頃だ。蛙たちの雌を求める声は、遠い蛙、近い蛙と声が重なり合い入り交じり、ひとつの声の塊となって作者の枕元に迫ってくる。いつ果てるとも知れないそれらの声の中で、いつか眠りにつく。自然と人間の営みが融合した心豊かな世界だ。
掲句はそのような情景を「蛙の国」と表現した。そこには、人間中心ではない、自然の運行に人の生活を順応させていくことを是とする自然観が窺える。『俳句』2023年4月号より。
水を張った一面の田で蛙が鳴き始めるのは晩春の頃だ。蛙たちの雌を求める声は、遠い蛙、近い蛙と声が重なり合い入り交じり、ひとつの声の塊となって作者の枕元に迫ってくる。いつ果てるとも知れないそれらの声の中で、いつか眠りにつく。自然と人間の営みが融合した心豊かな世界だ。
掲句はそのような情景を「蛙の国」と表現した。そこには、人間中心ではない、自然の運行に人の生活を順応させていくことを是とする自然観が窺える。『俳句』2023年4月号より。
「桜東風」は、桜が咲く頃に吹く東寄りの風のこと。この時季、気温のアップダウンはあるが、肌に触れてくる風の柔らかい感触はやはり春のものだ。そして、どこを歩いても、間近に、また、遠方に咲く桜が目に入らない場所はない。風そのものが、桜の明るさを帯びているようにも思える。
掲句は、母に付き添って病院に連れて行ったときの作品。日頃は妻が付き添うのだが、その日はたまたま私が病院まで一緒に歩いて行った。手をつなぐのは照れ臭かったので、私が前を歩き、ときどき遅れてくる母を振り返った。途中満開の桜が、やや強めの風に花びらを飛ばしていた。その時は、半年後、母がこの世を去るとは、思ってもみなかった。平成31年作。
春の繁殖期を迎えると、鳥たちは梢などで求愛の声を奏でる。四十雀などは、夜明けを待ちかねたように、二、三羽が、別々の梢で一斉に鳴き始める。彼らにとって、「囀(さえずり)」は、求愛であるとともに、縄張り宣言でもあるのだろう。冬の間は藪などにひそんで餌を漁っていた鳥たちが、人の目も怖れず、木の天辺に姿を現す。
掲句は、ゆったりとしたテンポの「囀り」に合わせて歩幅を緩めたという。作中で多くのことを語っている訳ではないが、自然とともにある日常や春が巡ってきた喜びを、無理のない言葉で、さり気なく、しかし、確かに語っている。『俳句』2023年4月号より。
公園や庭園は年を通して四季折々の風情を楽しめるが、生き生きと木々が芽吹き、色とりどりの花を咲かせ、芝が青み、梢に鳥たちの囀りが聞かれるようになる春は、ことに心惹かれる場所だ。そこは、常日頃の忙しない日常とは別の時間が流れているようだ。職場が近くにある人が、束の間の昼休みを憩いに来る。絵画教室の生徒らしい人たちが、木陰などに思い思いに画架を立てている。ベンチで一人弁当を広げている人もいる。子供たちは夢中になって遊具に集まっている。木の周りには、自転車や乳母車が乗り捨ててある。冬の寒さから解放されて、誰にも拘束されることなく、思い思いに過ごせるのが、「春園」の魅力だ。

俳句で「夜桜」といえば、夜の桜のことであり、また、夜桜見物を意味することもある。昼の桜も美しいが、夜、闇の中に仄かに浮かび出ている桜やライトアップされてくっきりと妖しい美しさを浮かび上がらせている桜は、人々を惹きつけて止まない。歳時記では「夜桜」が、通常、植物の部ではなく、生活の部に分類されているのも、夜の桜の周りには、その美しさを堪能しようとする人々の影が見え隠れしているからだろう。いつもなら誰もが寝入っている夜更けになって、夜の桜の周りに佇んでいる人を見掛けるのも、この季節ならではのことである。
