唐黍はトウモロコシのこと。秋の代表的な味覚の一つだ。
掲句は、晩夏初秋の頃長野の佐久地方を旅したときの作品。八方に立ち上がる雲は爛熟の様相を呈し、夏も終わりに近いことを思わせた。相変わらず真昼の日射しは強かったが、時折吹き抜ける風は思いのほか涼しく、収穫間近なトウモロコシの葉を鳴らした。佐久平は、北に浅間山、南に八ヶ岳や蓼科など三方を山に囲まれる高原地帯。令和元年作。
唐黍はトウモロコシのこと。秋の代表的な味覚の一つだ。
掲句は、晩夏初秋の頃長野の佐久地方を旅したときの作品。八方に立ち上がる雲は爛熟の様相を呈し、夏も終わりに近いことを思わせた。相変わらず真昼の日射しは強かったが、時折吹き抜ける風は思いのほか涼しく、収穫間近なトウモロコシの葉を鳴らした。佐久平は、北に浅間山、南に八ヶ岳や蓼科など三方を山に囲まれる高原地帯。令和元年作。
夜が長い秋は闇に親しむ季節だ。闇の中で虫の声に耳を澄ましていると、来し方やわが身の行く末のことが胸中を去来する。
掲句は暗がりで虫の鳴き声に包まれていての作。近くの闇に鳴いているコオロギも、たまたまコオロギに生まれて、今を生きている。私も60余年前に人に生まれて今を生きている。人の命もコオロギの命も、ともに宇宙の生々流転の中にあるというようなことを思った。令和4年作。
俳句で小鳥といえば、尉鶲、鶸など秋に渡ってくる小鳥たちや、留鳥であっても、秋に山地から平地に下りてくる小鳥たちのこと。春から夏にかけて姿を見せなかった尉鶲のよく通る声を庭先に聞くと、秋の到来を実感する。
掲句は多摩全生園の園内を散策したときの作品。園内にかつてあった分校の跡地は公園となり、記念碑を残すのみとなっていた。記念碑のレリーフに手で触れると、ひやりと冷たい感触があった。令和4年作。
秋風は、万物衰退の季節に吹く風である。身にしみてあわれを添える光景の中を吹き抜けてゆく。
掲句は魚河岸での嘱目を作品にしたもの。魚が捌かれて、生きて海原を泳いでいたときの姿から、一個の食材へと変貌してゆく。包丁さばきの手並みが鮮やかであればある程、あわれさを感じさせる光景だった。平成24年作。
ななかまど(七竈)は、バラ科ナナカマド属の落葉高木。晩秋の深紅で燃えるような紅葉もいいが、落葉の後に残っている赤い実も風情がある。
掲句は長野の野辺山高原での作品。間もなく雪が覆うであろう晩秋の山々は、澄んだ空気の中で荒々しい山膚を見せていた。畑と駐車場の境のななかまどの葉が、真っ赤に色づいていた。令和2年作。