「春待つ」は春の到来を待ち望むこころもちを表す冬の季語。同じ時季の季語「春近し」よりも主観的で、待ちわびる気持ちが強い。
冬も終わりに近い頃、春を待ちわびる自らの心の動きや五感の働きを省みてできた作品。この時季、春の気配は日差しや木立など目に見えるものよりも、一段と活発になってくる鳥の声に感じ取れることが多い。昼、鵯や雀など身近な鳥の声に春の兆しを感じ取っていた我が耳が、夜眠っている間も覚醒したまま辺りに耳を澄ませているような気がした。春を待ちわびる思いの故だろう。令和5年作。
「春待つ」は春の到来を待ち望むこころもちを表す冬の季語。同じ時季の季語「春近し」よりも主観的で、待ちわびる気持ちが強い。
冬も終わりに近い頃、春を待ちわびる自らの心の動きや五感の働きを省みてできた作品。この時季、春の気配は日差しや木立など目に見えるものよりも、一段と活発になってくる鳥の声に感じ取れることが多い。昼、鵯や雀など身近な鳥の声に春の兆しを感じ取っていた我が耳が、夜眠っている間も覚醒したまま辺りに耳を澄ませているような気がした。春を待ちわびる思いの故だろう。令和5年作。
「花吹雪(はなふぶき)」は風に舞い飛ぶ桜の花びらを吹雪に譬えた言葉。爛漫と咲き盛る花が惜し気もなく散っていく様に、日頃心の奥に眠っている古来からの日本人の美意識が呼び覚まされる。
掲句は、花吹雪を眺め、時には花吹雪に包まれながら、自らの心の内にひとつまみ程の狂気を念じたもの。佳き詩は天から恵まれるもので、自らの力量を超えた何かものかが宿らないと得られないと古来から言われている。花吹雪の中にいて、言葉に霊力を与えてくれる人智を超えたその何ものかを思っていた。それは自らの内の一つまみ程の狂気であっても、天から降臨する詩の神であっても、外界の人やモノとの偶然の出会いであってもいい訳だ。平成29年作。
「霙(みぞれ)」は雨と雪が同時に入り混じって降ること。地表近くの気温がそれほど低くない冬の初めや終わりに降ることが多い。
地震と水害は、近年毎年のように各地を襲う災害の中でも、とりわけ人々の生活に壊滅的なダメージを与える。掲句はそうした被災地の光景を思い浮かべてできた作品。霙が降り続いている瓦礫の中に、幼い児が日頃乗り回していた三輪車が見える。その子供は今どうしているだろうか。無事でいるだろうか。暗く積み上がった瓦礫の山に、霙は非情の冷たさでびしゃびしゃと降り続ける。災害が続く何とも遣り切れない思いを、「霙ふる」の措辞に託したつもりである。令和6年作。
鮎は秋に産卵のため河川の下流域に下る。産卵期が近づくと、体色が黒ずんでくる。この時季の鮎を「落鮎」「錆鮎」などといい、秋の季語。「子持鮎」も同時季の鮎を指す。
掲句は店先に並んだ秋の鮎の胸鰭に目をとめてできた作品。夏の間見かけた鮎よりも、胸鰭の草色が色濃く感じられた。生息する川岸の草木の緑が沁みついた色のように思えた。同じ秋の鮎を詠む場合でも、「落鮎」といえば落魄した印象が逃れ難いが、「子持鮎」といえば未来へつながる希望の一筋の光が差してくるような気がする。令和6年作。
桜は古来より詩歌に歌われ、人々に愛されてきた花。もともとは、山野に自生する野生種のみであったが、江戸末期から明治にかけて栽培種である染井吉野が誕生し、現在では、単に桜といえば染井吉野をさすことが多い。
掲句の桜は、近くの公園の染井吉野の古木。樹齢は定かでないが、その公園が米軍基地として使われていた頃から盛んに花を咲かせていたことを思えば、既に百歳近いのだろう。年々その時季になると見応えある花を咲かせてくれるが、近年は梢の蕾のつき具合などにかつての勢いがなくなり、樹勢の衰えは隠しようがない。その時も、今年も咲いているだろうかと多少危ぶみながら足を運んだ。「知己(ちき)」というのは知人、友人のことだが、私とその桜の古木の関係も、長い付き合いの「知己」のようなものだと歩きながら思った。令和6年作。