「涼新た」は、立秋を過ぎて、夏の間に折々感じていた涼しさとは違う本格的な涼しさを感ずること。待ちに待った秋が身辺に到来した感じだ。そうした風の感触は心地よいが、夏が終わった一抹の寂しさ、心細さを伴うこともある。
掲句は台所俳句。牛蒡を笹の葉の形に薄く切ることを笹掻きというが、切った牛蒡がはらはらと水に落ちるさまに興趣を感じた。男子厨房に入らずと言われたのは昔のこと。もっとも、牛蒡を削ぎ落していたのは私ではなかったが・・・。平成26年作。
「涼新た」は、立秋を過ぎて、夏の間に折々感じていた涼しさとは違う本格的な涼しさを感ずること。待ちに待った秋が身辺に到来した感じだ。そうした風の感触は心地よいが、夏が終わった一抹の寂しさ、心細さを伴うこともある。
掲句は台所俳句。牛蒡を笹の葉の形に薄く切ることを笹掻きというが、切った牛蒡がはらはらと水に落ちるさまに興趣を感じた。男子厨房に入らずと言われたのは昔のこと。もっとも、牛蒡を削ぎ落していたのは私ではなかったが・・・。平成26年作。
飯田蛇笏(本名武治)は、昭和37年10月3日郷里の山梨県境川村(当時)で逝去。折から秋たけなわになる時節。代表句〈芋の露連山影を正うす〉は、丁度蛇笏忌の頃の大気の澄みが感じられる作品だ。
掲句は蛇笏忌の頃、明け方の川べりを歩いていての作品。辺りはまだ夜の気配が占め、頭上の月が皓皓と川面を照らし出していた。月光が「跳ね」と把握したことがこの句のポイント。平成22年作。
秋燕は、秋に南方に帰ってゆく燕をいう。営巣期を過ぎても8月中旬から9月にかけて帰る前の燕を見かけるが、軒先など人の生活の間近にというよりも、空高く遥か彼方を一羽又は数羽でとぶ燕の姿に気づくことが多い。
掲句は秋燕を見かける頃の空の澄みを句にしたもの。昼間快晴だった空が、崩れることなく、一片の雲もないまま暮れようとしている。その初秋の空合いを「緩びなき」と表現したことがこの句の眼目だと思っている。平成21年作。『春霙』所収。
末枯は、晩秋になり、草葉が上部から、又は先の方から枯れてくること。乾いた風に揺れながら枯れてゆくさまは、秋の深まりを感じさせる。
美術展で、江戸時代の絵師伊藤若冲の群鶏図を観る機会があった。真っ赤な鶏冠を振り立てて鶏が躍り出てきそうな絵の前に立っていて、ふと、日頃身の周りにある枯れかかった草々を思い浮かべた。いつまでも褪せない顔料で描かれた鮮烈な鶏たちと、日々青みを失いつつある末枯とは、正反対であるからこそマッチングするのではないかと直感した。平成18年作。『春霙』所収。
「雁来月(かりくづき)」は葉月(陰暦八月)の異称。陽暦ではほぼ9月にあたる。北の国から雁(かり)が渡ってくる月だ。
9月は依然として昼間の残暑は厳しいが、夜は心地よい涼気が四肢を包む頃だ。めっきり夜が長くなってくる。月を見上げていると、渡って来る雁の羽音が聞こえてくるような気がする。「闇に親しむ」というのは、その頃の夜の実感そのままの措辞。平成17年作。『春霙』所収。