「台風」は強風を伴う熱帯低気圧で秋の季語。台風の過ぎ去った後を「台風過」という。からりと晴れわたった秋の青空とともに、台風が地上に残して行った様々な爪痕をも想像させる言葉だ。
掲句は、台風が過ぎた朝、八国山(狭山丘陵東端)の麓の池の辺に立っている棕櫚を詠んだ作品。その古着のようにだらりと垂れ下がった葉が、夜中に吹き荒れた風の強さを物語っていた。春になって新しい葉が出るまで、棕櫚はその古着のような葉をまとってそこに立ち続けるのだろう。平成26年作。
「台風」は強風を伴う熱帯低気圧で秋の季語。台風の過ぎ去った後を「台風過」という。からりと晴れわたった秋の青空とともに、台風が地上に残して行った様々な爪痕をも想像させる言葉だ。
掲句は、台風が過ぎた朝、八国山(狭山丘陵東端)の麓の池の辺に立っている棕櫚を詠んだ作品。その古着のようにだらりと垂れ下がった葉が、夜中に吹き荒れた風の強さを物語っていた。春になって新しい葉が出るまで、棕櫚はその古着のような葉をまとってそこに立ち続けるのだろう。平成26年作。
「蚯蚓鳴く」は、秋の夜、実際には発音器官のないミミズが鳴いているとする浪漫的な季語。空想的な季語だが、秋の夜更け庭先などから聞こえてくるコオロギなどの声にミミズの声も交じっていると思うと、秋の夜長の情趣が増すようだ。
掲句の「偽書(ぎしょ)」は手元にある岩波文庫の「花屋日記」で、「芭蕉臨終記」との副題がついているように、元禄7年秋の松尾芭蕉の終焉の様が直弟子の日記という体裁をとって記されている一書。正岡子規はこの書を読んで感動の涙をこぼしたという。この書が贋物であることは今では誰もが知っていることで、岩波書店もそれを承知の上で文庫本の一冊にしたのだが、創作として読めば誠によく書けていて、私には秋の夜長を愉しむのにうってつけの一書だった。当時偽書であることを伏せて世に出した著者の心のうちをあれこれと想像して、「蚯蚓鳴く」という季語に思い至った。平成26年作。
「秋深し」は秋も半ばを過ぎていよいよ季節が深まった感じをいう。一歩ずつ近づいてくる冬を前にした、深閑とした静けさが感じられる季語。
掲句は、十余年前に亡くなった父宛てに届いた封書を目にして、亡き父のことを思い、秋の深まりを覚えたという句意の作品。父亡き後、父宛てに来る手紙はほとんど途絶えたが、それでも稀に父宛ての手紙が届いていることがある。多くは種苗や園芸の会社からのセールスの葉書で、即座に破り捨てるものばかりだ。しかしその時手にしたのは、差出人が個人の一封書だった。秋が深まっていく森閑とした思いが、その時の私を包んでいたように思う。平成28年作。
秋時雨は秋も終わりの頃に降ってはすぐに止む雨のこと。紅葉の季節に降る雨であり、どこか侘しい感じがある。一雨ごとに冬が近づいてくる。
掲句はある考古館のガラスケースの中に展示されていた土偶が契機になってできた作品。長野の茅野市で出土した縄文時代後期の土偶で、脚が太いどっしりとした姿。生命を育む女性の神秘と力を表現したものという。数千年の間土中に眠っていて、今、我々の前に姿を現した土偶に、縄文人たちのどのような願いや思いが宿っているのだろうか。令和元年作。
「芋茎(ずいき)」は里芋の茎のこと。赤芋茎、青芋茎、白芋茎の3種類がある。生ものは茹でて酢味噌などで食べたり、乾燥したものは水で戻して煮つけたり、汁の実としたりする。
掲句は自宅のベランダで笊に並べて干す芋茎を詠んだもの。好天の日は日に干し、夜になっても月光の下で干した。干し上がるにつれて濃縮し、芋茎の嵩が減って軽くなっていく実感があった。令和4年作。