「達磨市」は年末から春先にかけて、各地の寺院などで行われる縁起物の達磨が売られる市のこと。群馬県高崎市にある少林山達磨寺では正月6日、7日に行われる。新年の季語。
掲句は、毎年1月5日、地元の久米水天宮の大祭にあわせて行われる達磨市を訪れたときの作品。水天宮は安徳天皇を祀り、安産・繁栄の神。早朝だったこともあり、露店の男たちが道の傍らの根雪を搔き、焚火を囲んでいた。参詣客が増えてくるのは、日が高くなって朝方の寒さが和らいでからである。平成17年作。『春霙』所収。
「達磨市」は年末から春先にかけて、各地の寺院などで行われる縁起物の達磨が売られる市のこと。群馬県高崎市にある少林山達磨寺では正月6日、7日に行われる。新年の季語。
掲句は、毎年1月5日、地元の久米水天宮の大祭にあわせて行われる達磨市を訪れたときの作品。水天宮は安徳天皇を祀り、安産・繁栄の神。早朝だったこともあり、露店の男たちが道の傍らの根雪を搔き、焚火を囲んでいた。参詣客が増えてくるのは、日が高くなって朝方の寒さが和らいでからである。平成17年作。『春霙』所収。
「初句会」は新年になって初めて行われる句会のこと。月の例会がそのまま「初句会」となる場合が多い。参加者は新鮮な気持ちで句座に望む。蜜柑や菓子が配られるなど、新しい年を迎えた華やぎがただよう。
掲句は「初句会」の選句や披講の合い間に句友と交わした二言三言を詠んだ作品。一病を抱えているのは、年配者にはごく普通のことだが、それでも病と付き合っていると心が重くなりがちなものである。「さらりと」で、その句友の前向きな気持ちと句座の明るい雰囲気が表せていれば幸いだ。平成18年作。『春霙』所収。
「去年(こぞ)」は年が改まった後で振り返る去年のことで、過ぎ去った年を惜しむ新年の季語。一方、「今年」は旧年が去り、やってきた新しい年のことで、年がすでに改まった新年の季語。また、大晦日の一夜にして去年と今年が入れ替わることを「去年今年」という。
掲句は新年を迎えた朝、近くの川べりを歩いていての作品。川の「せせらぎ」にも新たな年を迎えた新鮮な響きがこもっているように思えた。と同時に、過ぎ去った年の名残の音のようにも思えた。一夜で去年と今年が入れ替わったことに、新たな感銘があった。令和7年作。
「初山河(はつさんが)」は元日に眺める山河のこと。日ごろ見慣れた山や川も、正月を迎えたばかりの目には、ことさら新鮮に映ずる。「初景色」とほぼ同様の意味だが、「初山河」には、自らの住むふるさとの自然を大掴みに捉えた趣がある。
掲句は元日の朝、いつもの散歩コースを辿りながら、西を走る秩父連山を眺め遣っての作品。夜通しの風も収まって、遥かな山々がくっきりと己を顕していた。新たな年を迎え、改めて生きて呼吸している自らを振り返った。「初山河」を前にした自分自身に意識を向けた一句。令和7年作。
「年新た」は「新年」の傍題。新たな年を迎えた改まった気分が出ている季語だ。
掲句は、鉱(あらがね)色の稜線に、新たな年を迎えた感慨を重ねた作。「鉱」は、掘り出したままの精錬されていない鉱石のこと。西に走る秩父の山々を、元旦の畑の中を歩きながら眺めた。きっぱり晴れた朝の山々が、いつもより近々と、また、荒々しく見えた。『郭公』の井上康明主宰に、「独自の踏み込んだ表出には自らの生きる風土への凝視と把握があるように思う。」と鑑賞していただいた。平成26年作。