「去年(こぞ)」は年が改まった後で振り返る去年のことで、過ぎ去った年を惜しむ新年の季語。一方、「今年」は旧年が去り、やってきた新しい年のことで、年がすでに改まった新年の季語。また、大晦日の一夜にして去年と今年が入れ替わることを「去年今年」という。
掲句は新年を迎えた朝、近くの川べりを歩いていての作品。川の「せせらぎ」にも新たな年を迎えた新鮮な響きがこもっているように思えた。と同時に、過ぎ去った年の名残の音のようにも思えた。一夜で去年と今年が入れ替わったことに、新たな感銘があった。令和7年作。
「去年(こぞ)」は年が改まった後で振り返る去年のことで、過ぎ去った年を惜しむ新年の季語。一方、「今年」は旧年が去り、やってきた新しい年のことで、年がすでに改まった新年の季語。また、大晦日の一夜にして去年と今年が入れ替わることを「去年今年」という。
掲句は新年を迎えた朝、近くの川べりを歩いていての作品。川の「せせらぎ」にも新たな年を迎えた新鮮な響きがこもっているように思えた。と同時に、過ぎ去った年の名残の音のようにも思えた。一夜で去年と今年が入れ替わったことに、新たな感銘があった。令和7年作。
「初山河(はつさんが)」は元日に眺める山河のこと。日ごろ見慣れた山や川も、正月を迎えたばかりの目には、ことさら新鮮に映ずる。「初景色」とほぼ同様の意味だが、「初山河」には、自らの住むふるさとの自然を大掴みに捉えた趣がある。
掲句は元日の朝、いつもの散歩コースを辿りながら、西を走る秩父連山を眺め遣っての作品。夜通しの風も収まって、遥かな山々がくっきりと己を顕していた。新たな年を迎え、改めて生きて呼吸している自らを振り返った。「初山河」を前にした自分自身に意識を向けた一句。令和7年作。
「年新た」は「新年」の傍題。新たな年を迎えた改まった気分が出ている季語だ。
掲句は、鉱(あらがね)色の稜線に、新たな年を迎えた感慨を重ねた作。「鉱」は、掘り出したままの精錬されていない鉱石のこと。西に走る秩父の山々を、元旦の畑の中を歩きながら眺めた。きっぱり晴れた朝の山々が、いつもより近々と、また、荒々しく見えた。『郭公』の井上康明主宰に、「独自の踏み込んだ表出には自らの生きる風土への凝視と把握があるように思う。」と鑑賞していただいた。平成26年作。
初大師は、弘法大師のその年初の縁日で正月21日。東京近辺では川崎大師が有名だ。
掲句は、正月3日に川越喜多院に詣でたときの作品。こちらは慈恵大師の縁日。正月3日に示寂したのでその日が縁日になっている。弘法大師の縁日である初大師とは日が異なるが、こちらも初大師と称して差し支えないだろう。その日、喜多院の境内は達磨市などが立って、夜になっても正月の華やいだ雰囲気が辺りを占めていた。平成30年作。
「初鶏」は元日の暁に鳴く鶏のこと。元日の夜明け、まだ暗いうちに初鶏のこえを聞くと、改まった清々しい気分になる。
掲句は初詣に早暁の電車に乗って秩父方面に出掛けたときの一句。とある駅で停車したとき、車窓の闇の中で、学校か寺社で飼っているらしい鶏が時を作っていた。鶏鳴を契機に、新たな年が流れ出したように感じられた。平成29年作。