「青林檎(あおりんご)」は7月頃から出荷される早生種の林檎。果皮が青く果肉は酸味が強い。丸ごと齧 ったときの口中に広がる清涼感は夏のもの。熟す前のまだ青い状態の林檎を指すこともあるようだ。単に「林檎」といえば秋の季語。
掲句も南仏旅中の作品。シャモニー近郊のセルボ村の村内には、至る所で林檎やプラムが青い実をつけていた。無花果(いちじく)や榛(はしばみ)の実も見かけた。モンブラン山系の山々が雲間から顔を出す雨上がりには、それらの青い実が初々しく、色鮮やかに目に沁みた。令和7年作。
「青林檎(あおりんご)」は7月頃から出荷される早生種の林檎。果皮が青く果肉は酸味が強い。丸ごと齧 ったときの口中に広がる清涼感は夏のもの。熟す前のまだ青い状態の林檎を指すこともあるようだ。単に「林檎」といえば秋の季語。
掲句も南仏旅中の作品。シャモニー近郊のセルボ村の村内には、至る所で林檎やプラムが青い実をつけていた。無花果(いちじく)や榛(はしばみ)の実も見かけた。モンブラン山系の山々が雲間から顔を出す雨上がりには、それらの青い実が初々しく、色鮮やかに目に沁みた。令和7年作。
「緑さす」は初夏の新樹や若葉に日が差し込み、その緑色が周囲に照り映える様子を表す。「新緑」と同義で使われることが多く、「新緑」の傍題としている歳時記もある。
掲句は南仏旅行中の作品。シャモニー近郊のセルボ村を散策しているとき見かけた光景が契機になっている。大きなトレーラーから、数千頭の羊が野に放たれた。それらの群羊(ぐんよう)を追う牧羊犬が数匹、その羊の群れの周りを行きつ戻りつして、賢そうに走り回っていた。羊らは草を踏み灌木を潜りながら、野を移動して行った。羊の背中にSやTの焼印(やきいん)を押してあるのが印象的だった。焼印は、所有者を識別するためのものだろう。令和7年作。
「炎天」は太陽の日差しが強く、焼け付くような真夏の空のこと。
掲句は今年(令和7年)の6~7月に南仏を旅行したときの作品。日本と同様、その頃のヨーロッパも熱波に見舞われていた。コートダジュールからプロヴァンスにかけてのエリアを巡る中で、多くの教会や大聖堂の内部を見る機会があったが、その日は地中海沿岸の港町ヴィルフランシュ・シュル・メールのサンピエール礼拝堂やサンミシェル教会を訪れた。礼拝堂の朝の祭壇(さいだん)には、礼拝に来た人たちの蠟燭の灯が二、三ともっていた。キリスト教信仰とは無縁の私だが、その地に住み、心の拠り所として日々教会に親しんでいる人々の心持ちを想像してみた。教会の天井辺りに鳥の巣があるらしく、雛鳥の声が時折こぼれてきた。令和7年作。
「田水沸く」は田の水が強い日光を受け、熱せられてぬるま湯のようになること。機械化が進んだとはいえ、炎天下での草取りなどの農作業は厳しい。実際に田んぼに入ると、水が非常に熱く感じられるのだろう。
掲句は、長野の野辺山高原に行く途中、小淵沢で途中下車しての作品。駅前商店街を抜けると一面の青田が広がり、強い日差しを受けて田圃の水が生温くなっていた。正面の甲斐駒ヶ岳(甲斐駒)は分厚い雲を被ったまま。田圃から立ち昇る温気が、凝って雲になったように思えた。平成19年作。『春霙』所収。
「くちなし」は本州の中部以南に自生する常緑低木で、漢字表記では「梔子」。6、7月、枝先に香りのいい白色の六弁花を咲かせる。
掲句は梅雨の頃真っ白に咲いてたちまち黄ばんでゆく「くちなし」と、古びやすい言葉というものを取り合わせた作品。話し言葉であれ書き言葉であれ、話され書かれた言葉は、その時は新鮮に感じても、一日経つと古びてしまうことが多い。作句の現場であっても事情は同じだ。思い浮かんだ瞬間は手応えがあっても、一日寝かせて読み直してみると、何の感銘も覚えないことの方が多い。言葉という古びやすいものに、永遠の命を吹き込む難しさを日々感じている。令和4年作。