風船がゆく元日の船の上 龍太
「雲母」昭和64年1月号。
「元日」は一年の始めの日。暦の上で新しく年の改まる正月の初日として重視される。「鶏日」ともいう。
掲句は旅吟。青々と晴れわたった元日の船の上を風船が飛んでいく。船客である作者は、船端から仰いで見送っている。「元日」の華やぎと作者の胸の内の淡々とした旅愁の交錯がこの句の味わい。単明な句柄だが、華やぎと旅愁の入り混じった情感が捨てがたい。過去の記憶を呼び覚ましての作品と思われる。
風船がゆく元日の船の上 龍太
「雲母」昭和64年1月号。
「元日」は一年の始めの日。暦の上で新しく年の改まる正月の初日として重視される。「鶏日」ともいう。
掲句は旅吟。青々と晴れわたった元日の船の上を風船が飛んでいく。船客である作者は、船端から仰いで見送っている。「元日」の華やぎと作者の胸の内の淡々とした旅愁の交錯がこの句の味わい。単明な句柄だが、華やぎと旅愁の入り混じった情感が捨てがたい。過去の記憶を呼び覚ましての作品と思われる。
鰯雲浮子また水をよろこべり 龍太
「雲母」昭和63年10月号より。
「鰯雲」は鰯の群れのように空に広がる雲。天候の悪化の前兆といわれる。台風や移動性低気圧が近づく秋によく見られ、秋の季語。「浮子」は、当たりを知るために、また餌を所定の深さに置くために釣り糸につける浮標のこと。アバ、ウキ、フシなどと読むが、ここではウキと読みたい。
釣り好きだった龍太には 釣りあげし鮠に水の香初しぐれ 龍太 など釣り絡みの佳句があるが、掲句も釣りの醍醐味を満喫している作者の姿が彷彿する作品だ。川に浮かべている「浮子」も、魚たちや作者の足と同様水をよろこんでいる。既に夏の炎暑は去り、頭上を鰯雲が流れ、爽やかな秋の好季節を迎えている。自然と一体になった作者の釣りの在りようが浮かんでくる。
句集には収められていないが、龍太の子息飯田秀實氏が龍太20句選の中に選んでいる。
秋の蟬生死草木と異ならず 龍太
「雲母」昭和63年9月号に発表された作品。
「秋の蟬」は立秋を過ぎて鳴く蝉のこと。8月中・下旬の頃の蝉の鳴き声にはまだまだ力強さがあるが、日が経つにつれて油蝉に替わって蜩や法師蝉が鳴き始め、秋も深まるにつれて数が減り、声も弱々しくなっていく。
掲句は蝉という生き物のもつ草木に近い在りようを「生死草木と異ならず」と表現した。蝉に、動物のもつ生々しさよりも、草木に近い印象を持っているのは、私だけではないだろう。例えば蟷螂に捕らえられて喰われるときの蝉は、自らの生死に無関心なあっけらかんとした姿で蟷螂に喰われてしまう。草木から栄養をもらい、草木の精のような存在としてこの世に短い生涯を送る。そのような蟬というものの本質を、この句は掴んでいるように思う。
句集には収められなかったが、発想の独自性という点で捨てがたい作品だ。既存の句集に収められている 碧空のひかりを収め秋の蟬 龍太 など4句と比べても、遜色ない出来と思われる。
雲の峰踝に水流れゐる 龍太
「雲母」平成3年8月号。
掲句は川の浅瀬に立って雲の峰を仰いでいる情景。頭上には雲が真夏の勢力を誇示し、踝(くるぶし)には清冽な川の流れを感じている。具体的に自らの体の中の一部分(踝)に感覚の焦点を定めたところがいい。雲のもつエネルギーと水の涼味が、夏という季節の醍醐味を味わわせてくれる。
雲の峰は龍太が好んで使った季語の一つで、『遅速』にも 看護婦の三つ指遊び雲の峰 龍太 など3句が収められている。これらの句に比べると掲句は平淡な句柄だが、夏の全貌を表していて捨てがたい佳句だと思う。
春の蟬村びと溶けむばかりなり 龍太
「雲母」昭和63年8月号。
「春の蟬」は蟬の中で最も早く鳴き出す蟬のこと。晩春の頃から山の松林などで鳴き出す。夏の季語である松蟬と同じ蟬であるが、鳴き出す時期をとらえて春蟬とよぶ。日を浴びて遠近に湧き上がるその声には、春の柔らかい情感がある。
掲句は春の蟬が鳴く好天のもと、畑に出たり道を通り過ぎたりする村びとの姿が、地に溶けんばかりに見えるとの句意。季節の推移に随順するような柔らかい春蟬の声は、この句の情景によく合っている。龍太自身も、村びとの一人としてこの地に溶けんばかりにして暮らしている。この時の作者の脳裏には、〈ふるさとの土に溶けゆく花曇 甲子雄〉の作があっただろう。掲句を句集に収めなかったのは、村びとが「溶ける」との把握の独自性に一抹の疑念があったからかも知れない。