『猿蓑』は芭蕉の監修のもとに、去来、凡兆により元禄四年に編まれた撰集である。許六が「俳諧の古今集也」と評したように、序文、跋文など古今和歌集になぞらえた構成になっている。幸田露伴は、かつて『猿蓑』に関し、「華實倶備、奇正隻収、俳諧者流の所謂不易と流行とを兼ねて」いると称賛した。また、石田波郷は、俳句固有の方法を元禄の俳諧、特にその典型である『猿蓑』に探ろうとした。
このように、世評の高い撰集であり、収められている発句には、一部には駄句も混じっているが、七部集のなかでは最も佳句が多く粒ぞろいであることは言うまでもない。
その中で作風が対照的なのが凡兆と芭蕉の発句だ。
時雨るゝや黒木つむ屋の窓あかり 凡兆
禅寺の松の落葉や神無月 〃
門前の小家もあそぶ冬至哉 〃
呼かへす鮒賣見えぬあられ哉 〃
下京や雪つむ上の夜の雨 〃
『猿蓑』に入集した凡兆の句は四十四句で最多である。その特色は、印象鮮明であること、換言すれば、一読具象的イメージがくっきりと立ち上がること、主観の露骨な表出がなく、したがって嫌味がないこと、さらには、写実の目が利いていることなどである。
そこには、投獄や病臥など必ずしも順調な人生ではなかった凡兆の境涯は表れていないし、また、特に芭蕉の作品にみられる対詠的性格や、古歌、漢詩の喚起するイメージを重層的に引きずっていることもない。当時「かるみ」を志向していた芭蕉が評価したのも、このような凡兆作品の伝統に囚われない身軽さだった。
なお、前掲の第五句の上五を「下京」と置いたのは、芭蕉の勧めに従ったもので、この句は言わば両者の合作である。「下京」というような地名のもつイメージの重層性を嫌った凡兆からみれば、「雪つむ上の夜の雨」で表現すべきことは尽きていただろう。
当時の蕉門の連衆のなかで凡兆に対する評価が高かったことは、入集した発句数はもとより、巻之五に収められている四編の歌仙のうち、二編で凡兆の作品が発句に据えられていることからも窺われる。
市中は物のにほいや夏の月 凡兆
あつしあつしと門々の聲 芭蕉
や、
灰汁桶の雫やみけりきりぎりす 凡兆
あぶらかすりて宵寝する秋 芭蕉
の付け合いには、両者の息がぴたりと合っていて、後年
こりもせで今年も萌ゆる芭蕉哉 凡兆
と詠んだような、反発や離反の気配はみられない。
一方、『猿蓑』への入集句数が凡兆に次いで多い芭蕉の発句には、
初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 芭蕉
こがらしや頬腫痛む人の顔 〃
住みつかぬ旅のこゝろや置炬燵 〃
から鮭も空也の痩も寒の内 〃
などがある。
第一句は、発句の部の巻頭に置かれている作品であり、『奥の細道』の旅を終えて伊賀越えの山中で詠まれたとされている。『猿蓑』の晋其角序では、この句を「あたに懼るべき幻術なり」と評しているが、「時雨」の詩歌における伝統を踏まえながらも、「新」の一字に、自ら樹立しようとしている新風に対する自負が窺える。
第三句は、
寝ごゝろや火燵蒲團のさめぬ内 其角
に触発されてできた作とも、また、慈鎮和尚の「たびの夜にまた旅寝してくさ枕ゆめの中にもゆめをみる哉」の作が想起されているとも言われる。芭蕉の作に、同時代の連衆に対する対詠的発想や今までに詠まれてきた詩歌との響き合いがあるのは、この句に限ったことではない。この両者の句には、
草の戸に我は蓼くふ蛍哉 其角
あさがほに我は食くふおとこ哉 芭蕉
声かれて猿の歯白し峯の月 其角
塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店 芭蕉
にみられるような句柄の際立った違いよりも、連衆心の静かな交響が感じ取れる。
第四句は、「から鮭」と「空也の痩」という同質のイメージを重ねることにより、心の味が言い取られており、そのイメージを繋いでいるのは季語「寒の内」である。「空也」は鉢叩をする空也僧のことであり、当時の焦門の連衆の中で共通の風狂の対象だった。
このような芭蕉の発句のもつ重層性、対詠性、境涯性に対して、凡兆の作品は、多くの場合眼前の対象以外のものは踏まえておらず、読者は白紙のまま作品に対することになる。凡兆の句の功罪もその点にある。このような作風には、時として、
上行と下くる雲や穐の天 凡兆
のように平板に傾く欠点もあり、良くも悪くも現代俳句の先蹤をなしていると言える。