これまで、龍太俳句における孤心の表れをみてきたが、次の諸作などには、前掲の諸作とは対照的に、人間に対する関心や、「雲母」の諸友、文人などとの豊かな交友が背景にある。
どの子にも涼しく風の吹く日かな(昭和41年)
晩涼やおのおの語る古俳諧(昭和48年)
日向より帰りし甲斐も秋暑にて(昭和50年)
盃を置いて柚柑の一枝剪る(昭和52年)
掲出の第一句は涼風の中で遊んでいる子供達を詠んだ作だが、作者と子供達との関わりは、作者が対象を観察し、描写するといった一方的な関係ではない。両者はともに同じ風土の中に生を受けたものとして、同じ涼風の中にそれぞれの時を過ごしている。作者が見ているのは、眼前に遊んでいる子供達であるとともに、幼少期の作者自身であり、また、幼くして亡くなった次女の面影でもある。それらの者たちを分け隔てなく涼風が吹き包んでいる。作品は、作者と子供達との一種の「うたげ」(大岡信)から生まれたものである。その「うたげ」は、作者の心の中だけにあるものなのだが・・・。
第二句には、俳句という同好の人々の座の中にあっての打ち解けた愉しい語らいがある。
第三句は、「九州えびの高原 五句」との前書きの付された一連の旅吟の後に収められており、「書信の端に」との前書きがある。年譜には、同年九月「雲母」九州俳句大会に出席とあり、この句が、旅後、大会で交友を深めた句友に認めた書信の端に記した即興の一句であったことが分かる。書信をとおしたこうした交流も、「座の文学」としての俳句の醍醐味だろう。
第四句には、「某日某氏邸」との前書きがあり、歓談の中のさり気ない動作を描写した平淡な作だが、そのさり気なさの中に、即興の味わいとともに、「某氏」との交友の機微が浮かび上がってくる。
龍太自身がエッセイの中で明らかにしているように、「某氏」は井伏鱒二であり、井伏との交友が契機になった作品としては、「I先生芸術院賞受賞」との前書きがある
春風のゆくへにも眼をしばたたく(昭和31年)
や、「爾今「尊魚堂主人」と自称すと来信あれば」との前書きがある
百千鳥魚にも笑顔ありぬべし(昭和63年)
などもある。前掲句の前書きを「井伏鱒二邸」としなかったのは、この句の軽い風趣を活かすには、特定の個人名は不要と考えたのだろう。
去るものは去りまた充ちて秋の空(昭和53年)
この句とよく似たモチーフの作に、
逝くものは逝き冬空のます鏡 蛇笏
があることは前述した。この蛇笏作が、遺された者の埋め合わせようのない孤心が色濃く表出されているのに対して、掲出の龍太作には、去るものが去った後充ちてくるものとの交感がある。両句の包含する情感は対照的だが、その違いの背景には、蛇笏、龍太が戦時に受けた心の痛手の深浅とともに、龍太には、蛇笏以上に、「雲母」の俳人のみならず、井伏鱒二をはじめとする文人との豊かで深い交友があったことを挙げておきたい。
雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし(昭和44年)
この句には、孤心と「うたげ」の二つの要素がある。「雪の日暮れ」時の淋しさは誰しも感じることだが、作者はそれを「いくたびも読む文」に譬えた。この譬えには、「文」の遣り取りを通じた豊かな交友が暗示されており、この句を、孤心とともに、作者の心豊かな交友の余韻を同時に感じさせる作にしている。
人声や此道かへる秋の暮 芭蕉
此道や行人なしに秋の暮 〃
両句はほぼ同時に出来たと言われている。「此道」の作が、前述のように、芭蕉の孤心から出た詠嘆だとすれば、「人声」の作は、孤心に徹することのできない芭蕉の人懐かしい心情から生まれた作である。 両句からは、孤心と「うたげ」との間で揺れ動いた晩年の芭蕉の心の在りようが見えてくる。
以上のように龍太俳句には孤心と「うたげ」双方の要素があるが、龍太作品の主軸は、「うたげ」の要素を孕みながらも、自然との一対一の交感を踏まえた「孤心」だろう。龍太語録にある「自然から見られている感じ」とは、自然との交感に軸足を置く作者にして、初めて言い得た言葉のように思われる。