今年も日の光や鳥の鳴き声に春の兆しが感じられ、平地ではぽつぽつ梅が咲き始める中、2月25日の龍太忌が巡ってくる。
飯田龍太の最後の句集『遅速』が発行されたのは、今から30余年前、私が「雲母」に入会して間もない頃だった。初心者だったこともあり、当時はこの句集に収められている一見平明で奥に手強さを秘めた諸作に余り馴染めなかった。それよりも古書店で買い求めた『百戸の谿』所収の
春の鳶寄りわかれては高みつつ(昭和21年)
春すでに高嶺未婚のつばくらめ(〃 28年)
いきいきと三月生る雲の奥( 〃 )
などの清新の気のみなぎる作品に惹かれていた。これらの諸作では、山本健吉が評したように、作者の青春と季節の青春が重なっている感があり、その渓川の流れのような清冽で瑞々しい情感が私の心を捉えたのだった。これらの作品の魅力は今でも少しも褪せることはない。
一方、今改めて『遅速』を繙いて、
白雲のうしろはるけき小春かな(昭和60年)
なにはともあれ山に雨山は春(〃62年)
露の夜は山が隣家のごとくあり( 〃 )
などの作品に接するとき、当時は読み過ごしていたが、個に徹して普遍に達したこれらの作品のよろしさが胸に沁みわたる。これらの句には、読者の目をそばだたせるような表現の綾や感覚の切れ味がある訳ではないが、その身構えのない表現には、確かに苔生した石の手触りと温もりがある。
例えば「なにはともあれ」の句は、作者の日常の物言いを「山」のリフレインを含む五・五の措辞が引き締めて、山国の故郷にあって春を迎えた喜びとともに、そこで齢を重ねてきた人の平穏な日常と息遣いが感じ取れる作品である。
これらの句の背景にあるのは、故郷への定住、土着を「奢り」として肯定する心だろう。
露の村墓域とおもふばかりなり(昭和26年)
山住みの奢りのひとつ朧夜は(〃60年)
龍太における故郷は、定住・土着の月日を重ねる中で、葛藤を内蔵するストレートな愛憎の表出から、故郷への定住・土着を奢りと感ずるまでに変化した。第二句は、作者が山住みの奢りとして挙げ得るものは、渓流釣りや茸採りなど数多くあるだろうが、「朧夜」というような模糊とした気象現象を奢りの一つに数えているところに味わいがある。
どの子にも涼しく風の吹く日かな(昭和41年)
子の皿に塩ふる音もみどりの夜( 〃 )
熱き湯に水さす春の夕餉どき(〃42年)
いずれも『忘音』所収の作品。これらの作品は、龍太における故郷観の変化が、故郷における自適の日常のくつろぎと不可分のものであること、それらの諸作がおおむね「軽み」の風合いを有していることを示している。
句集『忘音』は、母を亡くした後の重心の低い鎮魂の詩情が作品の主調音をなしていると評され、それはその通りなのだが、他方で、土着者の日常にあってのくつろぎの詩情を表出している諸作が、句集のもう一つの柱になっていることは見逃せない。
そして、俳句を野面積みの石垣や普段着や日用の雑器(陶器)に譬える龍太の俳句観は、俳句の実作を続ける中で、故郷への定住、土着を肯定する思いとともに定まってきたのだと思う。これらの俳句観の表出は、概ね昭和50年代に書かれたエッセイにおいてであり、実作者の立場から比喩を用いて当意即妙に語っているところに特色がある。
同時期にはこんな句もある。
梅漬の種が真赤ぞ甲斐の冬(昭和52年)
香奠にしるすおのが名夜の秋( 〃 )
涼新た白いごはんの湯気の香も(昭和53年)
第一句は『涼夜』、第二句以下は『今昔』所収。第三句の「ごはん」の炊き上がった湯気の芳しさは日本人の誰にも好ましいものだが、余りにも日常身近にあるため却って見過ごされやすい素材でもある。そのようなささやかな日常の中に作者は詩因を見出した。
芭蕉が自らの風雅を「夏炉冬扇」に譬えたとき、当時江戸で流行していた営利的な点取俳諧に対する批判意識があったといわれる。これに対して、俳句を木綿の肌着や日用の雑器や石垣に譬えたとき、龍太の胸中には、対世間的な意識はうすく、ひとえに俳句という詩型を愛するが故の俳句観の表出だったと思う。しかし、この俳句観の根底には、戦中戦後に兄の戦死・戦病死など痛切な経験を経てきた龍太の胸中にあった平和への希求が、密かに込められているようだ。
またもとのおのれにもどり夕焼中(平成4年) 「雲母」終刊号に発表された九句の冒頭に置かれた作品。作者を「もとのおのれ」へと誘ったのは、故郷への定住・土着を奢りと受け止める思郷の心だったと思う。前述の龍太の俳句観の帰結の一句ともいえるのではないだろうか。
(以上は、『郭公』2025年2月号掲載の拙文に若干の加筆・修正を加えて再録した。)