本句集は、高浜虚子選による子規の句業の集大成であり、虚子の「序」によれば、寒山落木など七冊の草稿の二万句近くの中から二千三百六句を選んだものである。
明治二十七、八年には次のような作が並ぶ。
絶えず人いこふ夏野の石一つ 子規
赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり 〃
紫陽花や青にきまりし秋の雨 〃
苗代の雨緑なり三坪程 〃
秋高し鳶舞ひ沈む城の上 〃
柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 〃
子規自身も「写生的の妙味は此時に始めてわかった様な心持がして」(獺祭書屋俳句帖抄)と書いているように、子規の写生開眼を窺わせる諸作である。これらの多くは、動と静、色彩と季節感、地名と季物など、いずれも配合の新鮮さにより印象明瞭な作品になっている。特に掲出の第三句は、ごく初期の
あたたかな雨がふるなり枯葎 子規
とともに、季物に対する出来合いの見方によるのではなく、そこから少しずれたところに新しい配合を発見しており、そこに、伝統的な見方よりも、自らの目に映り、自ら感じ取ったことを重視した子規における写実、写生の根本的な性格が見て取れる。
掲出の第六句については、随筆『くだもの』のなかで、奈良に柿という新しい配合を見出した喜びが語られている。
これらの諸作が作られた明治二十七、八年が、子規作品の一つの充実期と言っていい。
しかし、子規には、写生開眼から脊椎カリエスで歩行の自由を奪われるまで、日清戦争への従軍を挟んでごく短い年月しか与えられず、二十九年以降は「病床六尺」の限られた世界から素材を得た作品になった。
この頃の朝顔藍に定まりぬ 子規
鶏頭の十四五本もありぬべし 〃
掲出の第二句は本句集には収められていない。詠まれているのは何の変哲もない些事のようだが、対象の把握、単純化の技量の冴えに、子規の透徹した眼差しが感じられる。
そして、仰臥の身となった子規の実作には、次第に、そうした境涯の翳が濃くなるとともに、読者に対してもその境涯を踏まえて鑑賞するよう求める作品が多くなっていった。
榎の美散る此頃うとし鄰の子 子規
しぐるゝや蒟蒻冷えて臍の上 〃
小夜時雨上野を虚子の来つゝあらん 〃
いくたびも雪の深さを尋ねけり 〃
粥にする天長節の小豆飯 〃
これらの諸作の多くに「病中」などの前書きが付されている。子規が仰臥の身であるということを離れては、作品の十分な鑑賞ができないことについて、子規自らが自覚的であったことを示している。
そして、明治三十四年以降の最晩年には、作為、作ろうとする意欲を放棄したような作品が目につく。
五月雨や上野の山も見あきたり 子規
また、本句集には収められていないが、「仰臥漫録」の次のような作品もこの時期の子規作品の特色を示している。
梨腹も牡丹餅腹も彼岸かな 子規
つくつくぼーし明日なきやうに鳴きにけり 〃
これらの作品には、作の高下は別として、「病床六尺」などの当時の虚飾を去った随筆の文章と共通の印象がある。
以上が、子規作品の言わば幹の部分と言っていいが、本句集には写生・写実に依らない作品も収められている。子規は、『俳諧大要』で、俳句の作法の二つの大きな柱として「空想」と「写実」を挙げ、また、『俳人蕪村』においては、芭蕉が発句において自己の境涯を離れることがなかったのに対し、「四畳半の古机にもたれながら其理想は天地八荒の中に逍遥して無碍自在に美趣を求」めたとして蕪村を評価した。
朧夜や女盗まんはかりごと 子規
傾城を買ひに行く夜や鮟鱇鍋 〃
などの作は、蕪村張りの艶麗な世界を志向したものと思われ、
薬盗む女やはある朧月 蕪村
などを彷彿させる。しかし、この種の子規の作品の多くは蕪村の模倣から抜け出せず、独自性に乏しいことは否定できない。
他方、次のようなユーモアを湛えた軽妙な作品や贈答句に子規らしい一面を見ることができる。
烏鳶をかへり見て曰くしぐれんか 子規
行く我にとゞまる汝に秋二つ 〃
乾鮭に目鼻つけたる御姿 〃
掲出の第一句は小動物を題材にした佳品であり、
我事と鯲のにげし根芹哉 丈草
などを思い起こさせるが、子規の掲出句には空想の占める割合がより大きい。この種の佳品は他にもあるが、その多くが虚子選になる本句集から洩れているのは、必ずしも凡句だからということではなく、俳句と俳句でないもの、秀句・佳句と凡句に関して、虚子流の選別が行われたことによるのであろう。
第二句は、「漱石に別る」との前書きが付されており、渡欧する漱石に贈られた贈答句であり、また、第三句は、画賛として作られた作品である。いずれも、写生、写実の作法からはみ出す諸作である。
本句集から子規の写生、写実を学ぶだけでなく、俳句の多様な可能性を汲み取ることが必要だろう。