「白靴」を履くのは夏に限ったことではないが、季語としては夏季に分類されている。見た目が涼しげだし、夏の装いには白や薄い色の靴が似合う。
掲句は、夏の装いで海辺の駅に降り立ったときの軽やかな心持ちが表れている作品。無造作に言葉を並べたような破調の作品だが、その無技巧なところが句の味わいになっている。『俳句四季』2024年6月号。
「白靴」を履くのは夏に限ったことではないが、季語としては夏季に分類されている。見た目が涼しげだし、夏の装いには白や薄い色の靴が似合う。
掲句は、夏の装いで海辺の駅に降り立ったときの軽やかな心持ちが表れている作品。無造作に言葉を並べたような破調の作品だが、その無技巧なところが句の味わいになっている。『俳句四季』2024年6月号。
ホヤ目尾索類の総称で、マボヤ、アカボヤ、スボヤなどがある。卵形又は球形の全身が皮状の厚い被嚢を被り、それにイボ状の突起がある。浅い海の岩や海藻に付着して棲息する。酢の物や吸物にして食べる。

ツツジ科ツツジ属の常緑低木のうち、ツツジ類を除くものの総称。高山や谷間に自生するほか、多くの園芸品種が庭園に植えられる。初夏の頃、漏斗状鐘形の花を咲かせる。色は白、淡江、紅のほか、園芸種には黄、紫などもある。


「鬼灯(ほおずき)」はナス科の多年草。古くから庭や畑、鉢植えなどで栽培され、色づいた実が観賞されてきた。仲夏のころ、葉腋に黄白色の小さな合弁花を咲かせる。地味な花だが、その気配のかそけさに却って風情がある。

しみじみと大樹ありけり更衣 直人
第三句集『朝の川』所収のこの句の「大樹」は、作者の日常に連れ添うように身近にある樹だろう。作者の胸裏には、
渓の樹の膚ながむれば夏来る 蛇笏
というほぼ同じ季節を詠った作品があったと思われる。前掲の句はこの蛇笏作と遠く呼応している。
「しみじみ」の措辞には、普段見慣れたその樹相に改めて見入った作者が、心の底から、その「大樹」を共に生きる対象と確認していることが窺え、そこには、自らの経てきた歳月への思いも重ねられている。
一方、蛇笏作においても、作者と「渓の樹」との関係は、作者が「渓の樹」を見ているというだけの一方的なものではない。「ながめる」には、「じっと見つめる。感情をこめて、つくづくと見る。」(大辞泉)との意があり、この樹が作者にとって単なる一方的に見る対象でないと感じられるのはこの措辞にもよる。
両句とも、日常を共にする「大樹」や「渓の樹」と壮年期の作者の内面の緊密な繋がりが感じ取れる作品である。土着するもの同志の連帯感と言うこともできる。しかし、直人作の「しみじみ」には、蛇笏作の「ながめる」より主情的な踏み込みがあり、「大樹」と作者の心情の繋がりがより直截的に表出されている。
木のまはりばかり澄みゆく年用意 直人
霜浴びて巨木放心してゐたり 〃
風筋の大樹八十八夜かな 〃
掲出の第一句は、前掲の「しみじみと」の作と同年(昭和五十六年)の作であり、この句の「木」も作者の身近にあって、明け暮れ目にしている対象だろう。年の暮の慌ただしさの中にあって、ふと目にした木のまわりの静かさが作者に強く意識された。繁忙な人の営みと年の暮を迎えた「木のまはり」の静謐さとの落差が、作者の心を捉えた。作者は、この時、いつも身辺にあって自身を静かに見守っている「木」の存在をありありと感じたのだ。
第二句、第三句は、いずれも句集『遍照』所収であり、これらの句の「巨木」、「大樹」は、作者の身近にある同一の対象かも知れない。いずれにしても、これらの樹は、作者にとって、行きずりの存在ではなく、作者とともにその地に根を張っている存在感がある。
直人俳句において、同じ素材、同じ対象が繰り返し詠われるのは、「樹」の俳句に限らない。
山風のふたたびみたび薄氷 直人
雪解けの水また氷る山颪 〃
八方の晴れ尽したる春氷 〃
尾を引いて風の音する春氷 〃
第一句は、薄氷に、春浅い頃のまだ荒い山風がいく度となく吹き下ろしている景である。薄氷と山風との取合せだが、薄氷よりも、いく度も山から吹き下ろしてくる風の荒々しさにこの句の焦点がある。
第二句も、第一句と同様、まだ寒さの残る頃の山国の情景であり、薄氷と山颪との取合せだが、この句においては、山颪よりも、寒暖の繰り返しの中で、一たん解け出して再び結氷した水の情景に焦点がある。
第三句では、風は吹き静まっている。朝方は冷え込んで薄々と結氷したものの麗らかな春の日差しが射して、これから暖かくなる気配がある。下五に「春氷」と置いたことは、ha音を交える音韻の効果もあって、この句の印象を明るいものにしており、そこに、自らの風土に寄せる作者の内面の反映を見ることができる。
第四句は、やはり、春氷と風との取合せの作であり、下五に「春氷」と置いたことにより、寒暖の繰り返しの中で春に向う明るさがより鮮明である。
以上のように、直人俳句においては、自らの風土を形作る素材が繰り返し登場し、一つの素材を中心として、複数の作品群が、それぞれが独立した内容でありながら、言わば同心円をなして存在しているといえよう。