キョウチクトウ科の多年草。川岸や湿った草地などに自生するほか、切り花用などとして栽培される。初夏の頃、茎の先端に「丁」の字に似た淡い青紫の花をつける。

キョウチクトウ科の多年草。川岸や湿った草地などに自生するほか、切り花用などとして栽培される。初夏の頃、茎の先端に「丁」の字に似た淡い青紫の花をつける。

「残る鴨」は春になっても何らかの理由で日本にとどまっている鴨のこと。帰る時期を待っている場合もあるし、傷ついたりして日本にとどまる場合もあるだろう。
掲句は、春になっても残っている二羽の鴨を眺めていての作品。カルガモなどの留鳥であれば、繁殖期を迎える春から夏にかけてオスメスの番いが力を合わせて巣作りや子育てをするが、何らかの事情で残っている鴨たちは、二羽いても詰まらなそうに、また、お互いに関心なさそうに水に浮かんでいるというのだ。軽い感興の句だが、「残る鴨」のあわれさ、哀しさをどことなく感じさせる情景だ。『俳句四季』2024年6月号。
ツツジ科の常緑低木。関東以西の太平洋側から九州にかけての渓流の岩間などに自生するほか、多くの園芸品種があり、庭園などに植えられる。ツツジの一種だが、一般的なツツジよりやや遅れて、5、6月頃に漏斗状の鮮やかな紅紫色の花を咲かせる。ホトトギスの鳴く頃に咲くので「杜鵑花」の名がある

モクレン科の常緑高木。日本原産のオガタマノキ、中国原産のカラタネオガタマなどがある。日本南西部の暖地に自生するほか、神社の境内などに植えられ、神事に用いられたりする。晩春の頃、葉腋に芯の方が紫色を帯びた、コブシに似た黄白色の小花を咲かせる。芳香がある。

前回まで述べたような直人俳句における対象との関わりは、句集『矢竹』において一層緊密になっている。
空のまま立つ白梅の盛りなり 直人
爛漫といふ刻ありて山桜 〃
月日はそのままでは目に見えないものだが、第一句の「空(うろ)」は、白梅が経て来た歳月が目に見える形となったものである。「空」を抱えたまま咲き盛る白梅に注がれる眼差しは、自ずと、白梅の経てきた年月への思いとともに、白梅と過ごしてきた作者自身の歳月への思いに繋がってゆく。『遍照』には、同じ梅の古木が対象になったと思われる
青梅が真つ暗がりの虚に落つ 直人
の作がある。同年(平成六年)の
亡き母の齢また積む芽山椒 直人
の作と併せ読むと、「青梅」の句の底知れない虚の暗さは、その時の作者の心象風景そのものだったろう。いずれにしても、この梅の古木も、作者の風土を形作る素材の一つとして、繰り返し詠まれている。
また、前掲の第二句では、「山桜」とともに、「爛漫といふ刻」を過ごしたことが詠われている。「爛漫」は通常花の咲き乱れるさまの形容に用いられるが、この句では山桜を眺めながら、山桜とともに過ごす時間の豊さの形容に用いられている。咲き盛る「山桜」とともに心豊かな時を過ごしている作者にとって、「山桜」は、一方的に描写する対象というよりも、この世で生を共にする縁をもった知己のようなものだろう。なお、この句は、『朝の川』所収の
何事もなく刻過ぎて桜満ち 直人
の変奏という面もある。この句の焦点も、「何事もなく」過ぎてゆく桜とともに過ごす時間の豊かさにあり、対象との緊密な繋がりが、作者に、対象と共に過ごす時間そのものの豊さを意識させたと言っていい。
対象とともに過ごす時間に焦点を当てた作品としては、他にも、
白菖蒲急かるるとなき時に遇い 直人
がある。以上のいずれの作にも、対象との緊密な繋がりが根底にあって、対象とともに過ごす時間の豊さへの意識が生まれている。このような時間の豊さへの意識は、特に、春のゆったりとした季感の中で生き生きと働くようだ。