里芋、八つ頭、唐の芋などを植えること。前年収穫した種芋を穴に埋めるなどして保存しておき、それを3、4月に植える。種芋は湿気を好むので水分を含んだ畑に植えることが多い。サツマイモやジャガイモの場合は、「甘藷苗作る」「馬鈴薯植う」などという。

里芋、八つ頭、唐の芋などを植えること。前年収穫した種芋を穴に埋めるなどして保存しておき、それを3、4月に植える。種芋は湿気を好むので水分を含んだ畑に植えることが多い。サツマイモやジャガイモの場合は、「甘藷苗作る」「馬鈴薯植う」などという。

枳殻(からたち)は中国原産のミカン科の落葉低木で、唐橘(からたちばな)の略。古く日本に渡来し、当初は実を薬用とするために栽培されたが、後に野生化し、本州中部以南の暖地の山中に自生する。現在では庭木や生垣として植えられ、また、果樹園で柑橘類の台木として使われることもある。晩春の頃、若芽に先立って白色五弁の香りのよい花を咲かせる。秋には梅の実ぐらいの実がつき、黄熟する。

虚子と龍太の間で俳句観に大きな違いがあるのは、虚構や小説的趣向に対する態度だろう。かつて虚子は、『進むべき俳句の道』の中で、
雁に乳張る酒肆の婢ありけり 蛇笏
梵妻を戀ふ乞食あり烏瓜 〃
情婦を訪ふ途次勝ち去るや草角力 〃
の作について、「小説的材料を取扱ったといふ点に於ては共通の性質を備へてゐる。」とし、このような「小説的着想は新しい時代の産物・・」と称賛した。
自らの境涯を離れた虚構、小説的趣向による作は、
お手討の夫婦なりしを衣更 蕪村
負まじき角力を寝ものがたり哉 〃
身にしむや亡妻の櫛を閨に踏 〃
など、蕪村の作品に多く見られる。
芭蕉は、(連句は別として、)「尽く自己の境涯の実歴ならざるはなし。」(子規『俳人蕪村』)と評されるように、発句には基本的に虚構を持ち込まなかった。一方、蕪村は、洛中の片隅に住みながら、作句に当たっては、奔放に想像力を働かせた。
尾形仂は、前掲の蕪村の「身にしむや」の作について、「作品の中で自己を虚構化し自在な詩的想像力によって俳諧の世界を豊かにひろげた蕪村の方法は、写生中心主義の下でマンネリ化の危機に直面する現代俳句の行き詰まりを打開する上に、大きな示唆を呈示しているといってもいいだろう。」(『蕪村の世界』)と積極的に評価している。
子規は蕪村のこうした作を推奨し、自らも、
短夜やわりなくなじむ子傾城 子規
大雪になるや夜討も遂に来ず 〃
内閣を辞して薩摩に昼寝哉 〃
など、小説的趣向を実作に取り入れた。
虚子も、子規の志向を受け継いで、
ほろほろと泣き合ふ尼や山葵漬 虚子
などの句を作った。
虚子が称賛した蛇笏の前掲の諸作は、このような蕪村以来の流れを汲むものであり、俳句の対象を作者の境涯から解放し、その表現領域を広げるものであった。
しかし、蛇笏が小説的趣向や虚構による作品を作ったのは、主に大正年代初めの一時期であり、その後は、澄江堂芥川龍之介を追悼した
ほたる火をみてきたる河童子 蛇笏
などの作(句集『霊芝』所収)以外には、目ぼしい作は見当たらない。蛇笏俳句のリアリズムへの傾斜を示すものだろう。
龍太の場合はどうだろうか。
龍の玉升さんと呼ぶ虚子のこゑ(昭和59年)
この句において「虚子のこゑ」が聞こえたのは作者の想像力の産物だが、作品はあくまで一人称であり、当時の子規、虚子らの間の交友に対する作者の憧憬が、虚子の「こゑ」となって作者の耳にとどいたものとみたい。龍太には、掲出句のような虚の要素を含んだ作はあるものの、一貫して、自らの境涯を離れた虚構の作を作らなかった。この点は、蕪村よりも芭蕉の流れを汲むものだろう。
そして、このような作句姿勢の根底には、子規、虚子、蛇笏らによる小説的趣向の作に、蕪村の模倣を超えるような上乗の作がないという作品評価における見極めがあったと思われる。
管見でも、例えば前掲の
身にしむや亡妻の櫛を閨に踏 蕪村
について言えば、尾形仂はこの句の虚構を称賛しているが、道具立てが揃い過ぎて、巧妙なつくりものの感が否めない。
蕪村の本領はやはり、
遅き日のつもりて遠きむかしかな 蕪村
花いばら故郷の路に似たる哉 〃
など、故郷喪失者として、(心理的に)遠い故郷に対する追懐を詠った諸作にあるだろう。
以上のような龍太の姿勢は、実作だけでなく、『女性のための俳句教室』の次の一節などにも表明されており、龍太が俳句という詩形式をどのようなものと考え、それに何を求めたのかの一端が窺える。
「・・仮構(想像)でなく、実際にそうした体験があったとすると、作者にとっては、つきないおもいをいつまでも残す大事な作品になりますが、単なる想像とすると、一種のこしらえもので、何年か経つと忘れ去ることになります。仮に何年か経ってこの作品を読みかえしてみても、作者もまた一般の読者となんのかわりもない。」
「俳句はこころの日記だといわれます。日記は正直に記してこそ、日記の意味があるわけですから。」
龍太が実作をもって示し、俳句の啓蒙書等でも度々書いている句作における事実、経験の重視は、『去来抄』の同門評における、「於句は身上を出づべからず。もし身外を吟ぜば、あしくば害を求め侍らん。」との去来の言葉を想い起させる。この去来の言には、芭蕉を中心とする当時の蕉門における発句に対する姿勢が表れている。
なお、『去来抄』では、他方で、自らのこととして詠まなければ、事実にとらわれることなく詠んでもよい旨説いているが、前述の龍太の作句姿勢は、『去来抄』よりもさらに自らの句作に厳しい限定を加えるものである。
「詩の本質は、飾らない心が素直に言葉になることではないか。」(『龍太語る』)との晩年の言葉は、このような俳句観の延長上に生まれたものであろう。
芭蕉は、「格に入りて格を出ざる時は狭く、また格に入ざる時は邪路にはしる。格に入り、格を出てはじめて自在を得べし。」と言ったと伝えられる(『俳諧一葉集』)。
虚子、龍太とも、その作品には、有季定型という枠を守りながらも、「格」を出た自在さの印象がつよい。
天の川のもとに天智天皇と臣虚子と 虚子
爛々と昼の星見え菌生え 〃
初蝶来何色と問ふ黄と答ふ 〃
第一句は、大宰府の都府楼址を訪れたときの作である。歴史的な回顧の思いが大きな時空を包み込んでいる作という点では、『奥の細道』の
荒海や佐渡によこたふ天河 芭蕉
を思い起こさせるが、この芭蕉の作が、旅先で目にした景に即した諷詠であるのに対して、「天の川」の作では、「天智天皇」という歴史上の人物と「臣虚子」とを並置することにより大きな時空を現出させており、そこに、虚子の奔放不羈な想像力と、前掲の「去年今年」の作に通じるような大胆さを感じさせる。
第二句は、「菌」の生える山中にあって「爛々」と「昼の星」が見えるという、実景と想念が融合した作品である。
第三句は、只事に終りそうな禅問答のようなやり取りをとおして、初蝶の飛ぶ麗らかな春の空間を鮮やかに現出させている。
これらはいずれも虚子の自在さを証する作品である。
一方、龍太の自在さは、次の作などに表れている。
なにはともあれ山に雨山は春(昭和62年)
この句の「なにはともあれ」との思い掛けない表出は、「格」に囚われた発想からは出て来ないだろう。この措辞のゆったりとした土着者の気息には、春を迎えた山々に対する親しみがある。
千里より一里が遠き春の闇(昭和63年)
百千鳥雌蕊雄蕊を囃すなり(平成2年)
第一句は、心理的な距離感(プルーストはこの距離感のことを「内的な距離」と言っている。)が物理的、客観的な距離とは異なることを鮮やかに作品化している。「春の闇」の感触が、心理的な距離感にリアリティを与えている。
第二句は、沢山の鳥の囀りが、折から咲き盛っている花々の雌蕊、雄蕊を囃していると捉えた作品である。春酣の草木虫魚の命の交歓図であり、童心に溢れた自在な発想と鍛え抜かれた表現力とが相俟ってできた作であろう。
朧夜のむんずと高む翌檜(昭和47年)
三伏の闇はるかより露のこゑ(昭和48年)
返り花咲けば小さな山のこゑ(昭和53年)
これらの諸作で詠われているのは、対象の生命力であったり、目には見えないが確かに感じられる季節の推移の兆候であったり、作者の心耳が聞き取った「山のこゑ」だったりするが、いずれの作にも、五感では捉え難いが定かに感じられるものを、見える表現にしようという志向がある。
龍太俳句の自在さの根底には、「写生は、感じたものを見たものにする表現の一方法」(『自選自解飯田龍太句集』)との写生に対する柔軟な受け止め方があり、龍太においては、論と実作に乖離がなかったと言っていい。
この点、門下の俳人には客観写生を唱導しながら、実作では自らの写生論に収まりきれない句を作った虚子の場合と対照的である。龍太は、虚子の実作と写生論双方を胸に収めた上で、虚子流の写生論に柔軟な修正を加えたのだと思う。
それは兎も角、作品の対象が五感が捉えたもの、「見たもの」に限定されずに、それを超えた時空に広がっているところに、両者に共通する自在さの源がある。
「遅日」は春の日の暮れが遅いことをいう。実際には夏至が一番日暮れが遅いのだが、冬の日暮れが早かったので、春の暮れの遅さがひとしお印象深く感じられる。
春の夕暮れ時、「遅日」の感じを起こさせるものは、目に映るもの耳に聞こえるものなどさまざまあるが、掲句は「波音」の中に「遅日」を感じ取った。感じ取ったことを表現しただけの単明な句柄の作品だが、ゆったりとした「波音」の繰り返しの中に「遅日」を把握した感性は鋭い。『俳句』2024年5月号。