虚子と龍太の間で俳句観に大きな違いがあるのは、虚構や小説的趣向に対する態度だろう。かつて虚子は、『進むべき俳句の道』の中で、
雁に乳張る酒肆の婢ありけり 蛇笏
梵妻を戀ふ乞食あり烏瓜 〃
情婦を訪ふ途次勝ち去るや草角力 〃
の作について、「小説的材料を取扱ったといふ点に於ては共通の性質を備へてゐる。」とし、このような「小説的着想は新しい時代の産物・・」と称賛した。
自らの境涯を離れた虚構、小説的趣向による作は、
お手討の夫婦なりしを衣更 蕪村
負まじき角力を寝ものがたり哉 〃
身にしむや亡妻の櫛を閨に踏 〃
など、蕪村の作品に多く見られる。
芭蕉は、(連句は別として、)「尽く自己の境涯の実歴ならざるはなし。」(子規『俳人蕪村』)と評されるように、発句には基本的に虚構を持ち込まなかった。一方、蕪村は、洛中の片隅に住みながら、作句に当たっては、奔放に想像力を働かせた。
尾形仂は、前掲の蕪村の「身にしむや」の作について、「作品の中で自己を虚構化し自在な詩的想像力によって俳諧の世界を豊かにひろげた蕪村の方法は、写生中心主義の下でマンネリ化の危機に直面する現代俳句の行き詰まりを打開する上に、大きな示唆を呈示しているといってもいいだろう。」(『蕪村の世界』)と積極的に評価している。
子規は蕪村のこうした作を推奨し、自らも、
短夜やわりなくなじむ子傾城 子規
大雪になるや夜討も遂に来ず 〃
内閣を辞して薩摩に昼寝哉 〃
など、小説的趣向を実作に取り入れた。
虚子も、子規の志向を受け継いで、
ほろほろと泣き合ふ尼や山葵漬 虚子
などの句を作った。
虚子が称賛した蛇笏の前掲の諸作は、このような蕪村以来の流れを汲むものであり、俳句の対象を作者の境涯から解放し、その表現領域を広げるものであった。
しかし、蛇笏が小説的趣向や虚構による作品を作ったのは、主に大正年代初めの一時期であり、その後は、澄江堂芥川龍之介を追悼した
ほたる火をみてきたる河童子 蛇笏
などの作(句集『霊芝』所収)以外には、目ぼしい作は見当たらない。蛇笏俳句のリアリズムへの傾斜を示すものだろう。
龍太の場合はどうだろうか。
龍の玉升さんと呼ぶ虚子のこゑ(昭和59年)
この句において「虚子のこゑ」が聞こえたのは作者の想像力の産物だが、作品はあくまで一人称であり、当時の子規、虚子らの間の交友に対する作者の憧憬が、虚子の「こゑ」となって作者の耳にとどいたものとみたい。龍太には、掲出句のような虚の要素を含んだ作はあるものの、一貫して、自らの境涯を離れた虚構の作を作らなかった。この点は、蕪村よりも芭蕉の流れを汲むものだろう。
そして、このような作句姿勢の根底には、子規、虚子、蛇笏らによる小説的趣向の作に、蕪村の模倣を超えるような上乗の作がないという作品評価における見極めがあったと思われる。
管見でも、例えば前掲の
身にしむや亡妻の櫛を閨に踏 蕪村
について言えば、尾形仂はこの句の虚構を称賛しているが、道具立てが揃い過ぎて、巧妙なつくりものの感が否めない。
蕪村の本領はやはり、
遅き日のつもりて遠きむかしかな 蕪村
花いばら故郷の路に似たる哉 〃
など、故郷喪失者として、(心理的に)遠い故郷に対する追懐を詠った諸作にあるだろう。
以上のような龍太の姿勢は、実作だけでなく、『女性のための俳句教室』の次の一節などにも表明されており、龍太が俳句という詩形式をどのようなものと考え、それに何を求めたのかの一端が窺える。
「・・仮構(想像)でなく、実際にそうした体験があったとすると、作者にとっては、つきないおもいをいつまでも残す大事な作品になりますが、単なる想像とすると、一種のこしらえもので、何年か経つと忘れ去ることになります。仮に何年か経ってこの作品を読みかえしてみても、作者もまた一般の読者となんのかわりもない。」
「俳句はこころの日記だといわれます。日記は正直に記してこそ、日記の意味があるわけですから。」
龍太が実作をもって示し、俳句の啓蒙書等でも度々書いている句作における事実、経験の重視は、『去来抄』の同門評における、「於句は身上を出づべからず。もし身外を吟ぜば、あしくば害を求め侍らん。」との去来の言葉を想い起させる。この去来の言には、芭蕉を中心とする当時の蕉門における発句に対する姿勢が表れている。
なお、『去来抄』では、他方で、自らのこととして詠まなければ、事実にとらわれることなく詠んでもよい旨説いているが、前述の龍太の作句姿勢は、『去来抄』よりもさらに自らの句作に厳しい限定を加えるものである。
「詩の本質は、飾らない心が素直に言葉になることではないか。」(『龍太語る』)との晩年の言葉は、このような俳句観の延長上に生まれたものであろう。