キク科の二年草。山野の至るところに自生。晩春の頃、ヘラ形の葉の間から花茎を伸ばし、小さなつぶつぶの黄色い頭頂花を球状につける。葉裏や茎は白い毛で覆われている。母子草のロゼット(根出葉)は春の七草の一つでゴギョウ(御形)といわれ、正月の七草粥に入れる。

キク科の二年草。山野の至るところに自生。晩春の頃、ヘラ形の葉の間から花茎を伸ばし、小さなつぶつぶの黄色い頭頂花を球状につける。葉裏や茎は白い毛で覆われている。母子草のロゼット(根出葉)は春の七草の一つでゴギョウ(御形)といわれ、正月の七草粥に入れる。

若き日の龍太にとっては、故郷とどう折り合いをつけていくか、いわゆる「故郷との和解」ということが作品の重要な契機の一つになったことは想像に難くない。結論を先に言えば、龍太における「故郷との和解」は、作品にみる限り、昭和二十七年頃に兆しが見え、十数年かけて果たされたと考えられる。
野に住めば流人のおもひ初つばめ(昭和24年)
雁鳴くとぴしぴし飛ばす夜の爪(昭和25年)
露の村戀ふても友のすくなしや(昭和26年)
露の村墓域とおもふばかりなり( 〃 )
露の村にくみて濁りなかりけり(昭和27年)
露の村いきてかがやく曼珠沙華( 〃 )
いずれも、句集『百戸の谿』所収の初期作品から掲出した。掲出の第一句から第四句まで(昭和二十六年まで)の作には、「流人のおもひ」、「墓域」など、故郷である「露の村」に対する否定的な心情がストレートに表出されている。
金子兜太の比較的初期の作品に「霧の村」の句がある。
沢に菜屑散らばり霧の村に入る 兜太
霧の村石を放うらば父母散らん 〃
第一句は復員直後(昭和二十一年)の作であり、第二句は離郷して年数を経てから(昭和三十九年)の作である。
兜太の「霧の村」には、龍太の「露の村」と同様、作者が故郷に対して抱いているひえびえとした負の情感が盛られており、両者とも、後年の「故郷との和解」を経て、これらの措辞が作品に現われなくなったところも共通している。
掲出の第二句では、作者の生まれ育った「霧の村」に対する愛憎の拮抗が、「石を放うらば父母散らん」との、儚さや脆さを伴う想念を導き出しており、作者の故郷に対する複雑な思いが、復員後20年近くを経たこの時期においても解消しなかったことが窺える。しかし、それは、
しなのぢやそばの白さもぞつとする 一茶
のような自嘲や露悪とは異なる。石を放るという一見敵対的な行為は、故郷の桎梏から自由でありたいとの作者の願望の表れだろうが、それとともに、故郷に残してきた父母や故郷秩父への拭い難い愛惜の逆説的な表現でもある。兜太の「霧の村」は、学業や職業のために離郷した作者の胸中において、絶えず温められ、反芻されてきた原風景だったろう。
これに対して、龍太の「露の村」は、作者が現に身を置く風土であり、この「露」には、抽象的な意味合いよりも、直接的に膚で感じ取られたひえびえとした感触がある。そこに定住することの侘しさが直に感じられるのだ。
一方で、この時期の龍太には次のような諸作もあり、初期作品においても、必ずしも故郷否定一辺倒でない作者の内面の振り幅を示している。
青栗の天歓喜して夜に入る(昭和26年)
ゆく年の火のいきいきと子を照らす( 〃 )
これらの句には、桎梏となっている筈の故郷にあって作者が感じている幸福感、充足感が紛れなく表れている。
また、同じ「露の村」の句であっても前掲の第五句、第六句(いずれも二十七年作)には、作者の感情が暗から明へ、否定から肯定へ転じてゆく兆しが感じ取れる。これらの作には、故郷に対する負の情感があるものの、第五句についてみれば、主題は「露の村」そのものにはなく、ある人(おそらくは作者自身)の「露の村」に対する濁りのないストレートな憎み方に焦点が当てられている。下五の「けり」には、今まで気づかなかった自らの心の在りように初めて気づいたとの意味合いがある。そして、この濁りのない憎み方そのものに、故郷に対する思いの陰性から陽性への転化が窺えるのである。また、第六句には、「露の村」の暗さを打ち消さんばかりの「曼珠沙華」の明るさがあり、その明暗のくっきりとした対比に、故郷に対する心情の陽性への転化の兆しが見える。
ただし、この時期に作者の故郷に対する負の心情が消え去ったという訳ではない。それはその後も暫くは、伏流水のように、
ひえびえとなすこと溜る山の影(昭和35年)
ふるさとはひとりの咳のあとの闇(昭和42年)
などの作品となって時折顔を出している。
また、
天つつぬけに木犀と豚にほふ(昭和27年)
ふるさとの山は愚かや粉雪の中( 〃 )
などの作品も、作者の故郷に対する思いの明への転化を窺わせるものだろう。
第一句の「木犀」と「豚」の大胆な取り合わせには、開放的で男性的な陽気さがある。句集『童眸』には、
跳ぶ馬に斑雪強嶺の陽気な空(昭和30年)
の作もあり、これらの作にみられるからっとした明るさは、作者の気質の一面だったと思われるが、同時に、故郷に定住する作者の内面の変化をも示している。
桃は、中国原産のバラ科サクラ属の落葉樹で、弥生時代に日本に渡来。晩春、桜より少し遅れて淡紅の五弁花を咲かせる。観賞用の花桃には、八重、白、緋、源平などがある。桃の花には邪気を払う力があるとされ、かつては雛祭に飾られる花であったが、明治の改暦以降、雛祭は新暦の3月3日に行われるようになったので、桃の花の時期は、雛祭とずれるようになった。

春になって樹木や切り株の根元から萌え出る若芽のこと。徒長枝として多くは断ち切られてしまうが、里山では、次世代林を育てるために、櫟や小楢を伐採した後、切り株からの蘖を大切に育てる。樹木の伐採後、種子や苗を植えるよりも、切り株からの蘖を生かすことで、より樹木が早く成長し、効率的な木材生産を行うことができるとされる。

飯田龍太は、学業のために出京していた一時期を除けば、故郷の境川村を離れることはなく、定住、土着の俳人として終始した。龍太にとって、故郷はいつも厳として存在する現実だった。
「基本的には、俳句は日常的なものだと思います。・・・しかし、俳句の日常というのは親しみて狎れず、ということが大事でしょうね。」という龍太の談話(インタビュー『わが俳句を語る』)は、故郷に住みとおしてきた俳人としての実感から出た言葉だろう。故郷に住み続けていながら、目に触れ、耳に聞こえるものを絶えず新鮮に感受していくことの大切さと困難さをこの言葉は示している。
その年のその日のいろの薺粥(昭和53年)
この句などは、「親しみて狎れず」ということを実作をもって示した一例だろう。句集『今昔』には、「雲母京都支社句集『七野』に」との前書きが付されており、合同句集出版に対する祝意を込めた作であるが、前書きがなくても、「薺粥」という単一の素材に焦点を絞った作として、十分鑑賞に堪える句である。
「薺粥」は、正月七日には毎年食卓に上るものであり、掲出句からは、作者の「薺粥」の淡い色合いに対する感受の細やかさとともに、実際には毎年のように目にする対象であっても、その対象に狎れずに、「一期一会」の心得で接しようとする作者の心ばえが見え、定住、土着の日常の中で、身辺の対象を常に新鮮に感受していこうとする作者の志向が窺える。
前述のインタビューにおける「親しみて狎れず」との龍太の言葉は、故郷に定住・土着して俳句を作り続けた歳月がその背景にある。
以下では、時間を半世紀近く遡り、先ずは、故郷に定住することになった昭和二十年代の龍太の初期作品からみていくこととしたい。