春の終りのことで、「暮春(ぼしゅん)」ともいう。春の終る感慨に行く春を惜しむ思いが交じる。華やぎと一抹の寂しさ。これに対して、「春の暮」は、春の終る頃と春の日の夕暮れという2つの意味をもつ。

春の終りのことで、「暮春(ぼしゅん)」ともいう。春の終る感慨に行く春を惜しむ思いが交じる。華やぎと一抹の寂しさ。これに対して、「春の暮」は、春の終る頃と春の日の夕暮れという2つの意味をもつ。

「かるみ」の作例として前回掲げた芭蕉の諸作を再度みてみたい。
鶯や餅に糞する縁のさき 芭蕉
塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店 〃
寒菊や粉糠のかゝる臼の端 〃
第一句は、「鶯」という伝統的情趣を纏った季題を日常卑近な情景と取り合せた「かるみ」の作だが、現在の我々の目から見ると、伝統的な情趣に囚われないで日常卑近の題材を詠んだという意義以上のものは、この句からは見出し難い。
第二句は、前述のように、其角の奇想と対比したところに妙味がある作である。其角の句に触発されて、自らの志向を見定めた作と言っていい。
それは、天和期の作
あさがほに我は飯食ふおとこ哉 芭蕉
が、
草の戸に我は蓼くふ蛍哉 其角
を意識しつつ、それに和した作であるのと同様の関係にある。
この「あさがほ」の作は、それ自体は平凡な作であるが、其角の句に和したところに妙味があるのに対して、前掲の「塩鯛」の句は、其角の句との対比に加え、作品自体に鋭い感覚を内包しており、佳句と言っていいだろう。しかし、嘱目の軽い句であることは否定できない。
第三句は、日常卑近の題材による淡々とした詠み振りの中に「寒菊」の風情がよく生かされているが、第一句と同様、日常卑近な題材を取り上げたという以上の意義は乏しいように思う。
以上のように、「かるみ」の作例とされるこれらの作品は、当時の蕉門の連衆の目には新鮮に映ったのかも知れないが、今日の我々の目から見て、佳品であることは認められるとしても、芭蕉の作として抜きん出たものではない。
また、『猿蓑』以降、『炭俵』や『続猿蓑』に収められている蕉門の門人たちの発句が、俗調に堕して佳句に乏しいのも、「かるみ」の実践の困難さを示している。
芭蕉における「かるみ」という晩年の志向の達成は、死の年の次の諸作に待たなければならない。
むめがゝにのつと日の出る山路かな 芭蕉
秋ちかき心の寄や四畳半 〃
此秋は何で年よる雲に鳥 〃
秋深き隣は何をする人ぞ 〃
龍太俳句においても、次のような「かるみ」の作品がある。
梅漬の種が真赤ぞ甲斐の冬(昭和52年)
香奠にしるすおのが名夜の秋( 〃 )
涼新た傘巻きながら見る山は(昭和57年)
いずれも日常卑近の素材を句に取り入れて平易に表現しており、「かるみ」を体現した作といえる。そして、前述のように、龍太俳句における「かるみ」の作は、土着者の日常にあってのくつろぎの詩情と結びついているところに特徴があり、掲出の第二句、第三句の季語「夜の秋」及び「涼新た」は、そのことを示している。
一方、
それとなくひとの見てゆく春の川(昭和63年)
冬深しふたたび海を見たるとき(平成元年)
などの作は「かるみ」の作例といえるが、いずれも平淡で読後の印象の薄い作であり、龍太俳句の中では秀抜な作品とは言えない。このことは、「平俗な日常生活の中に詩を求め、それを日常のことばで表現しようとする」(尾形仂)ことが、実際の作句においていかに困難な道のりであるかを示している。
修二会(しゅにえ)は三月一日から十四日間、練行衆が奈良・東大寺の二月堂に籠って行われる法要。本格的な春の到来を前に行われる厳しい修行だ。
掲句は松明を振って群集に火の粉を浴びせるなどの一連の行が終わり、元の闇に戻った二月堂を描く。練行衆も群衆も去り、闇に包まれた二月堂の辺りは、激しい修行の後の静寂が支配しているだろう。松明の明るさと闇の対比、動と静の対比が鮮やかだ。『俳句』2024年5月号。
接骨木(にわとこ)はガマズミ科の落葉低木。北海道を除く国内の各地に自生する。晩春の頃、白色の小花が円錐状に密生する。枝、幹、葉の煎液(せんえき)を骨折や打撲の治療に用いることからこの名がある。
