前回取り上げた〈白雲のうしろはるけき小春かな 龍太〉の作からいったん離れて、別の句に目を向けてみたい。
白梅のあと紅梅の深空あり(昭和48年)
この句については、「じょうじょうとした紅梅の風情は、山国の春にふさわしい彩」との作者の自句自解の一節があり、山国の空を背景に、白梅に遅れて咲く紅梅の色彩を称えた作である。白梅と紅梅は時を違えて咲くのだが、読者には、山国の「深空(みそら)」のもとで、白梅と紅梅が同時に見えてきて、その映発がこの句のもつ美しさを一段と厚みのあるものにしている。
ほぼ同時期の作
咲きそめし桃にさくらの花吹雪(昭和46年)
も、時を違えて咲く花がモチーフになっているが、「白梅の」の作の省略を極めた簡潔な美しさには及ばない。句の簡潔な姿という点で、「白梅の」の作には、
一月の川一月の谷の中(昭和44年)
を想起させるものがあろう。読者それぞれが自由にイメージを育むことができる普遍的な句柄だが、その背後に、故郷の山河を称える心を潜めているところも共通している。
平井照敏は、『新俳句入門』の中で、この句について次のように述べた。
「気息と流動のリズムが脳裡にえがき出す図柄が、ひとりでに尾形光琳の「紅白梅図」につながってゆくのをおぼえる。」
平井は、さらに続けて、「句のことばの質感の類似によって」、龍太のこの句は、
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり 蕪村
に結びついてくるとし、蕪村を「純粋俳句」の先駆と位置付けたうえで、「龍太のこの句も蕪村と同質の純粋性をもつ」とした。
平井が龍太の句と対比した光琳の「紅白梅図屏風」は、写実をベースにしながらも構成的、装飾的に画面を作り上げており、そこには、実際の梅という対象のもつなまなましさを離れた、完璧な美の世界がある。龍太の「白梅の」の句についても、言葉により構築された美の世界を作り上げていて、素材のもつなまなましさは払拭されている。 対象に即してそのなまなましさを作品に定着させることよりも、対象から自立、完結した美の世界を志向している点で、光琳の屏風絵と龍太の「白梅の」の句には通い合うものがあり、平井による両者の対比は、「白梅の」の句の特質の一面を浮かび上がらせているようだ。
一方、平井は、龍太の「白梅の」の句を蕪村と同系列の「純粋俳句」だとして、蕪村の「しら梅に」の作を掲げているが、龍太の句と並べて鑑賞するとしたら、蕪村の臨終吟となったこの句よりもむしろ、
几巾きのふの空のありどころ 蕪村
が相応しいのではないだろうか。また、平井の論は、「白梅の」の句の根底にある甲州の風土とそれに対する作者の愛惜に言及していない点に不満が残る。しかし、この句には、平井のような「純粋俳句」としての読みを受け容れる柔軟さと普遍性があるだろう。
老梅の穢き迄に花多し 虚子
ぱつぱつと紅梅老樹花咲けり 蛇笏
梅を詠んだこれらの句と比較すると、龍太の「白梅の」の句の特質がよく分かる。この両句においては、対象の「いのち」と作者の「いのち」とが触れ合って火花を散らす様が見える気がするのだが、前掲の龍太作には、梅をモチーフにしながらも、梅という対象から自立した、円満具足な美の世界がある。
さて、再び前回取り上げた
白雲のうしろはるけき小春かな(昭和60年)
の作に戻るが、この句においても、雲という素材のもつなまなましさが払拭されていて、その点では前掲の「白梅の」の作と共通しているのだが、「白梅の」の作よりも構成意識が弱く、より構えのない日常の心情を垣間見せている点で、光琳の屏風絵から受ける印象とは隔たりを覚える。広漠たる時空に浮かぶこの「白雲」は、作者の見る対象というより、既に作者と不可分に結びついた存在となっているようだ。
また、この句は、
芋の露連山影を正うす 蛇笏
のように、対象の輪郭をくっきりと浮かび上がらせている作ではない。「うしろはるけき」との漠とした措辞では、対象の輪郭は浮かび上がって来ず、替わりに、広漠とした空間とともに、過ぎ去った遠い月日に対する作者の感慨が感じられてくる。
去るものは去りまた充ちて秋の空(昭和53年)
碧空の中なにもゐぬ大暑かな(昭和61年)
どこにありても南風は故郷の風(平成元年)
これらの句の「去るものは去り」、「なにもゐぬ」、「どこにありても」という措辞には、いずれも不定称の指示代名詞が用いられていて、作者は、ここでも、対象の輪郭を暈すこと(修辞学でいう朧化法の一種)により、より広やかな世界を表現しようとしているようだ。
掲出の第一句は、秋の空を去ったり充ちたりする「もの」を具象的に描き出してはおらず、読者は、この対象の輪郭を消し去った表現から、情景を自由に想像することになる。
例えば、この句の「もの」が鳥であれば、
稲刈つて鳥入れかはる甲斐の空 甲子雄
のような情景を、それが雲であれば、それに応じた情景を想い描くことができる。また、「もの」は「物」であるとともに「者」であり、「去るものは去り」との措辞にはどこか人臭さが感じられることから、この句を自然詠としてではなく、作者が接してきた人間社会を詠ったものとして読むこともできる。いずれにしても、この作の上五中七の流れるような措辞にはたっぷりと時間の経過が含まれており、時の経過の果てに見えてくる「秋の空」の澄明感がこの作のポイントである。
龍太には、「極めて具体的な表現をとった方が、はっきりした輪郭をもって、確かな句といえますね。」との発言(インタビュ―『わが俳句を語る』)もあり、俳句における抽象表現の危うさを十分認識していたと思われるが、この句は、敢えて対象の輪郭を消し去った表現を用いており、俳句の骨法である省略、単純化について、一つの可能性を示した成功例であろう。
うしろより月日蹤きくる雲の峰(昭和57年)
この句の「雲の峰」も、
白雲のうしろはるけき小春かな(昭和60年)
と同様に、素材としてのなまなましさより、作者の歳月に対する感慨を負っているという点で同系列の作品ということができる。この作の「うしろより月日蹤きくる」とのやや抽象的な措辞には発想の斬新さがあるが、余情のふくらみの点で、苔むした自然石のような味わいの「白雲の」の作に及ばないようだ。
以上、主として龍太の雲の句をとおして、素材のなまなましさを消して純化していくとともに、過ぎ去った月日に対する思いを深めていく方向への句風の変化をみてきた。
このような句風の変化の一つの契機になったと思われるのが、
一月の川一月の谷の中(昭和44年)
の作だろう。
この句については、「幼時から馴染んだ川に対して、自分の力量をこえた何かが宿し得たように直感した」との自句自解があり、作句の対象になった「川」は、作者の自邸(山廬)の裏手を流れる狐川である。
この句の「谷の中」を流れる「川」を狐川に限定して鑑賞する必要はなく、読者それぞれが抱いている「川」のイメージを呼び起こして読めば足りるのは勿論だが、「一月の」のリフレインによるこの句の緩みのない声調には、定住する故郷を愛惜する作者の心情が宿っているようだ。
狐川とその一帯の谷は、遠望の南アルプスとともに、幼時から親しんできた作者の原風景であり、繰り返し立ち戻る詩の源泉であった。十代後半に出郷した後帰郷する機会がなかった蕪村は、
花いばら故郷の路に似たる哉 蕪村
と詠んだが、龍太の「谷の中」を流れる「川」は、蕪村における「故郷」のように郷愁の対象として心象風景としてのみ存在したのではなく、そこに住み続ける歳月の中で長い年月をかけて育まれたもので、心象的なものを含みながらも、絶えず日常の光景として現実に存在し続けるものだった。
渓川の身を揺りて夏来るなり(昭和29年)
峡中のひとの生きざま青嵐(昭和44年)
一方、蛇笏は故郷の川や谷を次のように詠んだ。
冬といふもの流れつぐ深山川 蛇笏
夏雲群るるこの峡中に死ぬるかな 〃
両者のこれらの諸作が示すように、同じ川や谷が対象になっていても、作品として顕れるときは、四季により、また、作者の内面により作品は多様な表情を見せる。
掲出の「渓川の」の作では、擬人法により、夏を迎えた渓川のいのちの躍動感が生き生きと捉えられている。また、「峡中の」の作は、肉親を始めとして、そこに住み着いている同郷の人々に対する想いが作品の契機になっている。
これに対して、前掲の「一月の」の作では、いのちの躍動感も人間に対する関心も作品の底に沈んで、年初の、草木虫魚の命の営みも人影も無い森閑とした谷川の光景が詠われている。生きとし生けるものの営み、年々繰り返される生滅を超えて、この句の「川」は静謐で明るい一月の「谷の中」を流れ続ける。
作者は、この句ができたとき、対象についての具象的な叙述を省略することによって、却って、「一月」、「谷」、「川」といったシンプルな文字や言葉のもつ根源的なイメージが、全体として一つの世界を作り上げることを直観したのだと思う。そして、天から賜るようにしてこの句ができたことにより、作者の内で、省略、単純化ということが、俳句の表現領域を広げる上でどのような可能性を秘めているかについて、認識が一層深まっていったのではないだろうか。

