龍太と芭蕉、虚子、蛇笏(2)

龍太には、虚子を詠んだ句が幾つかある。

龍の玉虚子につめたき眼あり(昭和57年)

 句集『山の影』所収。この句からは、作者の虚子に対する、少し距離を置いた微妙な心情が感じ取れる。俳句の先達としての虚子、特にその句業には尊敬の念を抱きながらも、その生涯や作品の印象から窺えるその人となりを、「つめたき眼」に焦点を絞って冷静に言い止めている。

大寒の埃のごとく人死ぬる            虚子

去年今年つらぬく棒のごときもの      〃

  掲出の第一句では、人の死を「埃」に譬えており、読者にどう受け止められようとも、ある人の死から受けた自らの印象を偽らずに表現しようとする虚子の姿勢がみえる。人の死に対するこのような情を絶った受け止め方には、正岡子規の命終に際しての、

子規逝くや十七日の月明に           虚子

の作と共通の虚子の特徴が表れている。

 第二句について、龍太は、「虚子一代の代表句であると同時に、俳句史の中でも屹立した名句のひとつ」と賛辞を惜しまない。この句においては他の一切は捨象されて、去年今年を貫く時間の流れが、のっぺりとした「棒のごときもの」として眼前に差し出される。当時老境に達していた虚子が、これまで経て来た自らの歳月というものをどのように捉えていたかが窺える。その省略を極めた把握、表現の大胆さは、前掲の龍太句の「眼」のつめたい虚子像につながるものである。

龍の玉升さんと呼ぶ虚子のこゑ(昭和59年)

 句集『山の影』所収。明治における子規、虚子等の交友の在りようが彷彿する作である。この句は事実や経験から離れた虚構の作と言っていいが、後述するように、明治時代の子規、虚子らの交わりに対する作者の共感が根底にある作品である。

 子規の本名は「常規(つねのり)」だが、幼い頃伊予の郷里では「処之助(ところのすけ)」、「升(のぼる)」などの幼名で呼ばれ、上京してからも虚子らは子規のことを幼名のまま、「升(のぼ)さん」と呼んでいた。子規、虚子、碧梧桐らは、お互いに「升さん」、「清さん」などと幼名で呼び合う仲だった。

 俳句を文学の一分野として革新、蘇生しようとした子規と、子規の目指した方向に修正を加えながらもその業績を引き継いだ虚子。この二人により明治以降の俳句の方向がおおむね定まったことを思うと、龍太が子規と虚子の当時の交友や関わりに関心を持つのは当然だが、虚子の「つめたい眼」を詠んだ前掲の作とは対照的に、この句における子規、虚子らの交友に注がれる龍太の眼差しは好意的であり、羨望の念すら混じっているようだ。

 そして、両句を合わせ読むと、龍太が抱いていた虚子像の全体が浮かび上がってくる。

,

コメントを残す