龍太と故郷(6)

くつろぎの詩情は、日常詠だけでなく旅吟にも浸透している。

涼しくてときに羆の話など(昭和52年)

海鞘嚙んで牧に畑に雨が降る( 〃 )

闇深く鳥恍と鳴く夜の秋(昭和56年)

  掲出の第一句、第二句は、句集『涼夜』に、「北海道小旅九句」との前書きを付して収められている旅吟の中の作品である。旅中のくつろぎの心が「涼し」という季語の選択や、「海鞘」を噛みながら、視線や想像を雨の彼方に及ぼしているところに表れている。

  第三句は、句集『山の影』に、「様似の夏(九句)」との前書きのもとに収められた旅吟のすぐ後に置かれている作品であり、その配列からみて、様似への旅を終え、故郷に帰った時の作だろう。旅後の安堵、平穏な家居の日常に戻ったくつろぎの心が季語「夜の秋」に託されている。

 円熟期の龍太の旅吟には初期作品に見られるような旅心の昂りは殆んどみられず、日常心のまま旅中の風物に対しているところに特色があり、故郷にあっての日常詠と作品の風合いに変わりがない。

星月夜こころ漂ふ藻のごとし(昭和61年)

  句集『遅速』所収のこの句には、「壇ノ浦・早靹の瀬戸(五句)」との前書きが付されていて、旅吟であることが分る。同じ旅中の諸作のうち、

冷まじき潮壽永の音すなり(昭和61年)

幼帝のいまはの笑みの薄紅葉( 〃 )

などは、眼前の瀬戸の潮流に触発され、平家滅亡の世に思いを馳せての作品である。しかし、前掲の「星月夜」の作について言えば、前書きが無ければ、この句が旅吟か日常詠か見分けることは難しい。この句の「こころ」は、何の構えも無い日常心そのものである。旅先にあっても、日常心のままに、自らの心の手触りを確かめながら見るもの聞くものに対しているのだ。

かたつむり甲斐も信濃も雨のなか(昭和47年)

水澄みて四方に関ある甲斐の国(昭和49年)

漬梅の種が真赤ぞ甲斐の冬(昭和52年)

甲斐の春子持鰍の目がつぶら(昭和58年)

 「甲斐」という旧国名を用いた作は、昭和四十年代半ば以降の作品に現れる。それは山国の風土や歴史を負っている言葉であり、作者固有の境涯との結びつきは、「露の村」や「故郷」の作と比べると希薄である。

 初期の「露の村」の作には、多くの場合、定住することになった故郷に対する負の心情がストレートに表出されているが、「甲斐」の国名を用いた作には、故郷の山河を讃える心があろう。その点は、自らの故郷北信濃を「下國」として、

下々も下々下々の下國の凉しさよ     一茶

と詠んだ一茶と根底のところは同じだが、一茶が、執着・愛惜を抱いている故郷を逆説的に「下國」と表現しているのに対し、龍太の思郷の心は、前掲の諸作から、何の屈折もなくそのまま読者に伝わってくる。

 これらの諸作において、作者は、「甲斐」の住人の一人として、「かたつむり」、「水」、「漬梅」、「鰍」など、作者の日常身辺にあるささやかなものを愛しんでいる。

 これまで述べてきたような円熟期の龍太俳句の特色は、俳句を「普段着の文芸」とする作者の俳句観と切り離すことができない。

 龍太は、『解らないことなど』と題するエッセイの中で、芭蕉が風雅を「夏炉冬扇」に譬えたことについて、「十分に納得しかねている。(中略)即座の共感をはばむものがある。」と感想を述べた上で、俳句を「木綿の肌着のようなもの」とする自らの俳句観を披歴している。これは、自らにとって俳句とは何かということを、芭蕉の「夏炉冬扇」の風雅と比較しながら、改めて確認したものだろう。

  芭蕉が自らの風雅を「夏炉冬扇」に譬えたのは、元禄六年に彦根に帰藩する許六に餞別として書き与えた「許六離別の詞」の中においてである。この時芭蕉には、当時江戸で流行していた営利的な点取俳諧に対する批判意識があった(『新潮日本古典集成芭蕉文集』富山奏注釈)。自らと相容れない世間の流行を意識しての言という点では、虚子が自らを「守旧派」と称したとき意識していたのが、当時の碧梧桐を中心とする急進的な新傾向俳句運動だったことと事情が似ている。

 これに対して、俳句を「木綿の肌着のようなもの」とする前述の龍太の俳句観には、対世間的な意識は感じられない。しかし、この俳句観には、悲惨な戦禍を経てきた俳人の胸裏にあった平和への希求が密かに込められているように思う。

 また、芭蕉と龍太の俳句観は前述のように異なるが、両者の作品そのものにはむしろ重なり合う部分がある。

不性さやかき起されし春の雨          芭蕉

呑明て花生にせん二升樽               〃

 これらは、『奥の細道』の旅を終えた後の故郷伊賀滞在中の作であり、自ら選んだ旅の詩人としての漂泊の境涯も、江戸で流行している点取俳諧のことも忘れて、故郷にあって、常人として心ゆくままにくつろいでいる作者の姿が見えてくる。

山住みの奢りのひとつ朧夜は(昭和60年)

なにはともあれ山に雨山は春(昭和62年)

  第一句は、「山住み」の奢りと思えることは幾つもあるが、そのなかの一つが「朧夜」だという句意である。作者が「山住み」の奢りとして挙げ得るものは、三月の雲、郭公、茸採りなど数多くあるだろうが、「朧夜」というような曖昧模糊としたものを「奢り」の一つに数え上げているところに俳諧がある。

蕎麦はまだ花でもてなす山路かな      芭蕉

など、芭蕉が故郷伊賀を詠んだ作品には、故郷伊賀のつつましい風土を愛惜する心がある。一方、龍太には、

茸にほへばつつましき故郷あり(昭和49年)

のように、芭蕉と同様の心情を覗かせた作もあるが、前掲の「山住み」の作や旧国名「甲斐」を用いた作などには、故郷への定住、土着を「奢り」として肯定する心がある。

 また、前掲の第二句からは、故郷の日常にあって春を迎えた喜びとともに、円熟期の作者の緩やかな息遣いが感じ取れる。

またもとのおのれにもどり夕焼中(平成4年)

 『雲母』終刊号(平成四年八月号)に「季の眺め」と題して発表された諸作の冒頭の一句である。

 この句の「もとのおのれにもどる」とは、俳人以前の、何にも囚われない自由な「おのれ」に戻ることだろう。そして、作者を「もとのおのれ」へと誘ったのは、定住する故郷にあって故郷を思う思郷の心だったと思う。

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