龍太と故郷(1)

 詩歌で詠われる故郷といえば、離れたところから故郷やそこに住む肉親を想うという、いわゆる望郷の想いを詠った作品がまず思い浮かぶ。明治以降の俳句でも、

父を恋ふ心小春の日に似たる           虚子

あなたなる夜雨の葛のあなたかな    不器男

望郷の目覚む八十八夜かな         化石

など枚挙に遑がない。このうち、不器男の句は、「仙台につく、みちはるかなる伊予のわが家をおもへば」との前書きを併せ読むと、旅中の作者の胸中にあった望郷の思いの輪郭がはっきりする。

  遡って、芭蕉についてみると、山本健吉は、『漂泊と思郷と』と題する評論の中で、従来漂泊の詩人といわれてきた芭蕉が、意外なほど土着志向の俳人でもあったこと、芭蕉の志向する故里は、何時でもはっきり、風土的現実として存在することを明晰に論じている。

 以下では、芭蕉と故郷との関わりについて若干気づいたことを付け加えておきたい。

手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜   芭蕉

年暮ぬ笠着て草鞋はきながら            〃

旧里や臍の緒に泣く年の暮              〃

不性さやかき起されし春の雨             〃

家はみな杖にしら髪の墓参              〃

新藁の出初て早きしぐれ哉              〃

 故郷伊賀で作られたと思われる主な芭蕉の作品を作句年順に挙げた。作句年順といっても、全て、亡くなるまでの最後の十一年間の作である。

  掲出の第一句、第二句は、いずれも「甲子吟行」の旅中伊賀に帰郷した時(貞享元年)の作であり、第三句は、「笈の小文」の旅中、やはり故郷に滞在した時(貞享四年)の作である。また、第四句は、「奥の細道」の旅後の上方滞在中に帰郷した時(元禄四年)の作であり、第五句、第六句は、最後の上方への旅の途中故郷に滞在した時(元禄七年)の作である。

 これらは全て故郷滞在中の作品である。他方、芭蕉の全作品に目をとおしてみても、故郷を離れたところから故郷やそこに住む肉親を想うという、いわゆる望郷の想いをはっきり表出した作品はみられず、作品の気息から感じ取れる場合があるに過ぎない。芭蕉の作品におけるこのような故郷の詠い方は、その旅に明け暮れた漂泊の生涯を念頭に置くと、意外の感もある。

世にふるもさらに時雨のやどり哉   宗祇

をうけて、

世にふるも更に宗祇のやどり哉          芭蕉

と詠むなど、自らを漂泊の詩人の系譜と思い定めていた芭蕉は、一旦捨て去った故郷への郷愁を安易に口にし、また句にすることを、自らに戒めていたのだろうか。

 また、前掲の諸作は、後期になるほど、漂泊の詩人としての自覚や悲壮感が薄れ、逆に、常人として故郷との一体感を強めているようだ。

 前掲の第一句及び第三句では、帰郷して、亡母の「しら髪」や自らの「臍の緒」を目にしたことによる感情の激しい起伏が表出されているが、その感情の表出には、常日頃故郷を顧みず旅に明け暮れていることが背景にある。また、第二句における帰郷もまた旅寝の延長にあるとの思いの表出は、自らを漂泊の詩人とする自覚から出たものだろう。 

 しかし、第四句には、旅を人生とする覚悟よりも、故郷にあってのくつろぎの気配が濃く、第五句には、ともに老いてゆく兄弟や同族の人々に対する労わりが感じられ、作者は、これらの人々の一人として墓参に加わっている。また、第六句には、故郷伊賀の風土への愛惜がある。

  また、前掲の第一句及び第三句では、「しら髪」や「臍の緒」をとおして肉親(亡母)との繋がりを確認しているのだが、第六句では、「新藁」や「早きしぐれ」をとおして、故郷の風土そのものが掴み取られている。この句や

しぐるゝや田のあらかぶの黒む程      芭蕉

など、故郷伊賀の風土を捉えた諸作が現われてくるのは、「奥の細道」の旅以降である。みちのくへの旅が、芭蕉の故郷に対する目を開かせたのだろうか。

  山本健吉は、芭蕉の故郷伊賀に寄せる思いを「思郷」と表現した。「思郷」は、手元の辞書によると、「故郷を懐かしく思うこと。」とあり、基本的には「望郷」と同じ意味だが、前述のように、芭蕉においては、故郷を離れたところから故郷を詠うといういわゆる望郷の詩ではなく、現実の風土としての故郷が詠われていることから、氏は、芭蕉の故郷に対する思いを、「望郷」ではなく、「思郷」と表現したのだと思う。

花いばら故郷の路に似たる哉          蕪村

 蕪村は、十代後半に出郷して以降は帰郷することが無く、「故郷喪失者」といわれる。この句では、作者の胸裏に棲みついていた故郷(摂津国東成郡毛馬村)のイメージが、花茨により呼び覚まされている。

 蕪村の作品の中で「故郷」の語を用いた例は、掲出句や

故郷春深し行々て又行々            蕪村

との「春風馬堤曲」の一節のほかは見当たらないが、蕪村の幼い頃形作られた故郷のイメージは純化されて、

愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら        蕪村

遅き日のつもりて遠きむかしかな      〃

などの作品になった。蕪村においては、故郷は常に心象風景、郷愁の対象であり、芭蕉における故郷が現実の風土だったのと対照的な在り方であった。

  一方、一茶が故郷柏原を詠った作品としては、

是がまあつひの栖か雪五尺             一茶

下々も下々下々の下國の凉しさよ    〃

正月や梅のかはりの大吹雪              〃

田の厂や里の人数はけふもへる         〃

霜がれや貧乏村のばか長き              〃

などがあり、いずれも故郷の現実の風土が捉えられている点で芭蕉と共通する。しかし、掲出の諸作からも分るように、一茶の故郷に対する思いには、作品により濃淡はあるが、執着、諦念、自嘲、露悪などの様々な感情が入り雑じっていて、単純に愛惜といえるようなものではない。

  掲出の第一句は、若くして江戸へ出て三十余年の漂泊生活を送った後、「つひの栖」を得て故郷に戻ったときの作である。「柏原を死所と定て」との前書きが付された真蹟もある。上五の「是がまあ」には、長い漂泊生活に終止符を打つことができた安堵とともに、深雪の中にこれまで執着してきた故郷を見出した作者の諦念の混じった溜め息が聞こえてきそうだ。死に至るまでの自らの行く末を見通しての作と思われる。

  第二句は、故郷に帰住して初めての夏を迎えた時の作である。「おく信濃に浴して」との前書きがあり、近くの温泉宿に滞在しての作だろう。宿の座敷などで気儘に涼気を堪能している一茶の姿が思い浮かぶ。自らの故郷奥信濃を「下國」と謙って言っているのだが、この句の「下々」のリフレインから感じられるのは、表向きの謙りとは裏腹に、故郷柏原の住人となった自らに対するふてぶてしいまでの肯定である。

  第三句~第五句は、いずれも故郷の現実の風土が捉えられている作だが、露悪的な傾向も表れていて、故郷に対する執着と露悪趣味が分かち難く結びついていた一茶の内面が窺える。

 やや前置きが長くなったが、基本的には漂泊の詩人でありながら故郷を捨て去ることができなかった芭蕉、故郷喪失者として郷愁を詠った蕪村、長い漂泊生活を経て念願の帰郷、定住を果たした一茶と、それぞれの故郷との向き合い方は大きく異なる。

  以下では、必要に応じてこれら三者における故郷との関わり方と比較しながら、飯田龍太における定住、土着とその作品についてみていくこととしたい。

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