龍太と雲(6)

初期の作品は別にして、円熟期の龍太俳句においては、内面に相反するものを抱えているというよりは、定住する故郷に対して抱く愛惜の思いが、作品の基調をなしている。

なにはともあれ山に雨山は春(昭和62年)

  句集『遅速』所収のこの句には、とりわけ、故郷にあって平凡に春を迎えた作者の自適の思いが顕著に感じられる。「なにはともあれ」との漠とした措辞の緩やかな声調には、ひと冬を無事に過ごして春を迎えた喜びがあるが、そこには、四季の循環にともなう感慨に加えて、半生を顧みて、過ぎ去った月日を肯定し愛惜する心がある。作中に人の気配は無く、独り山に対している独白の句だが、作者の心は自然に向かって開かれている。

磧にて白桃むけば水過ぎゆく            澄雄

年過ぎてしばらく水尾のごときもの    〃

億年のなかの今生実南天               〃

 森澄雄のこれらの句には、「今生」、即ちこの世に生きているささやかな己の生の一瞬一瞬を愛おしむ心が感じられる。

  第一句では、磧で白桃をむくというささやかな営みをとおして、無常迅速の思いの中で、只今の己の生を愛おしんでいる。

  第二句では、年末から年初への時の推移が自らの心に残して行った「水尾のごときもの」を見つめているのだが、その静かな気息に、年末年初にあって、刻々と過ぎてゆく「今生」を愛惜する心がある。

  第三句については、「何万何十万年前に生まれた人間が、今生に身を受けてこれから何年生きられるかわからんけれども、実南天のように、赤く艶々と今生を生きたい。」との作者の自解の言葉を引用すれば十分だろう。

 一方、先ほど見たように、龍太俳句においては、自らが郷里で過ごしてきた月日を愛惜し、肯う心情が根底にあって、今の己の生への自足の思いが生まれている。

 端的に言えば、澄雄の関心は、只今の己の生の一刻一刻であるのに対し、龍太は、これまで故郷とともに過ごしてきた月日を愛おしんでいると言える。

 龍太には、回想、追想が契機となっている作品が比較的初期から多くみられる。

紺絣春月重く出でしかな(昭和26年)

  初期の代表作であるこの句では、作者は、眼前に上がった春の月を眺めながら、母や兄たちと過ごした幼時を追想している。紺絣は作者の追想のなかに浮かんだイメージであった。この句の「春月」は、作者の回想、追懐を媒介する役割を果たしている。

 次の諸作においても同様のことが言える。

同じ湯にしづみて寒の月明り(昭和41年)

枯山の月今昔を照らしゐる(昭和49年)

  第一句については、自句自解に「湯のぬくみと月の光に、母が在り、無言の交情がある」とあり、清らかな「寒の月明り」が、亡母への追想を媒介している。

 第二句では、冴え冴えとした澄明な月が、眼前の枯山とともに、故郷にあって作者が経てきた歳月の起伏をも照らし出して、追想を誘っている。月明りに佇んで、作者の想いは「今」と「昔」を自由に行き来しているようだ。

今昔のこころゆききす春隣(昭和63年)

  句集『遅速』拾遺の中の一句である。作の高下はともかく、この句には、追想と眼前の景とを行き来する龍太の発想の特色が端的に表れている。

幸福肌にあり炎天の子供達(昭和31年)

裸子にかすかな熱の竈口(昭和33年)

  龍太には子供を詠んだ多くの作品があり、ここでは、句集『童眸』に収められている比較的初期の作を掲出した。これらの作品においては、多くの場合、作者が目にした現実の光景に、作者自身の幼少期の追想が加わっているものとみたい。そのように感じられるのは、これらの作品が、子供の世界の外面からの描写にとどまらず、それを内側から捉え得ているからだ。

 廣瀬直人は、『飯田龍太の俳句』の中で、

どの子にも涼しく風の吹く日かな(昭和41年)

について、「・・眼前のいかにも元気そうに日焼けした子供たちの姿に、作者が自分自身の少年時をダブラせて見ていないだろうか。」と鑑賞している。

 追想の中で子供に戻った作者は、子供の眼差しになって、たった今眼前に戯れている子供たちを眺めている。

 「季の恵み」と題する座談会で、三枝昂之は、句集『遅速』について、「人生の時間への愛惜がとりわけ深い」と評している。龍太が愛惜している人生の時間とは、故郷にあって過ごしてきた定住、土着の歳月であり、その歳月の記憶の積み重ねそのものであった。

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