今年も10月3日の蛇笏忌を迎える。折から夏の気配の残る初秋、冬の様相を増してくる晩秋と違い、秋そのものの気分に浸ることができる時節でもある。
芋の露連山影を正うす(大正3年)
蛇笏の名を最初に記憶したのは、教科書に載っていたこの句を通してだったが、その頃は蛇笏の多様な俳句作品やその生涯については何も知らないまま、この句から澄み切った山国の秋の空気を感じ取ったことを覚えている。
この句が蛇笏一周忌に当たって舞鶴城公園内(現在は芸術の森公園)に建立された句碑に刻まれていることを知ったのは、大分後のことだった。蛇笏自身は生前この句に重きを置いておらず、至極平明な写生句のつもりだったというが、歳月を経て門下や知友を始めとする多くの人々が蛇笏の代表作と目す作品となったということだろう。発表された後、作品が表現者の手を離れて独歩する一例といえる。
確かに、『山廬集』の大正3年の作品をみても、
かりがねに乳はる酒肆の婢ありけり
農となつて郷国ひろし柿の秋
ある夜月に富士大形の寒さかな
など多彩な諸作がある中でも、この句の句姿の正しさ、格調の高さに目を瞠る思いがする。近景である芋の露と遠景である連山の間の空間に、秋たけなわの山国の大気の澄みが如実に感じられ、蛇笏の初期の代表作であるばかりでなく、蛇笏の全作品から一句挙げよといわれても、やはりこの句になるのではないか。もちろん、
えんやさと唐鍬かつぐ地蜂捕(昭和13年)
今日もはく娑婆苦の足袋の白かりき( 〃 )
など、土俗の生活臭さや人情の機微に及ぶ蛇笏の多様な作品世界をこの句が代表・集約できる訳ではないし、また、この句は、境涯性を深めていった蛇笏の戦後の作品のもつ陰翳には乏しいのだが・・・。
大正3年といえば、虚子が『ホトトギス』の雑詠欄を復活させ、その意気込みを、
春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子
などの作に表して間もない時期であり、蛇笏の胸中にも、俳句に対して期するところがあったのだろう。「芋の露」の句の声調には、土着の俳人として自らの行く末を確信したような明るさがある。
ところで、絵画に具象画と抽象画があるように、俳句にも写生眼の利いた作品と、主観の表出や抽象的把握を特徴とする作品があり、後年の蛇笏の句集を読んでいくと、この両者を見出すことができる。例えば昭和28年には次の2句が目につく。
春めきてものの果てなる空の色
蜂とぶや鶴のごとくに脚をたれ
こうした蛇笏の作品のふり幅の大きさはその魅力の一つだが、「芋の露」の句には、この具象・抽象の両面が融合したところがあるだろう。近景の「芋の露」の具象と遠景の連山に対する主観・抽象的把握の表出とである。山本健吉が評したように、「正うす」は連山の佇まいであるとともに、当時の蛇笏の心の姿でもあった。
言うまでもなく、蛇笏の代表句とされる作品はあまねく四季にわたっているが、蛇笏の作品や生涯の印象が、山国の秋の清澄な空気と分かち難く結びついているように思えるのは、この「芋の露」の句や、辞世ともいわれる
誰彼もあらず一天自尊の秋(昭和37年)
に加えて、蛇笏逝去後の
み霊いま秋の山河のいたるところ 宋淵
蛇笏はや秋の思いの中にあり 蒼石
などの諸作が、多くの人々の共感を得たことにもよるだろう。前句は蛇笏葬儀の際の弔詞の中の一句であり、後句は逝去数年後の蛇笏忌に際しての作品。両句とも、山国の秋の気配と師蛇笏への思いが混然一体となっていて、蛇笏のたましいもそこに存在するかのようである。
蛇笏にとって、秋とはどのような季節だったのだろうか。
秋しばし寂日輪をこずゑかな(昭和10年)
冷かに人住める地の起伏あり(〃21年)
朝日より夕日親しく秋の蟬(〃34年)
蛇笏は『自選自註五十句抄』で、1句目について、「山国の秋という季節」における太陽の寂然たる相を語り、また、2句目について、「山国も秋冷の気が感じられるようになると、なにか妙に落着いた趣になる。寧ろ、人寰形成の様相が寂然たるものだ・・・」と自註している。これらの句や文章に見える「寂」「寂然」の言葉に、壮年期から老境にかけての蛇笏の心の在りようが表れているように思える。
また、晩年の作である3句目には、秋という季節に対する親しみが表れている。
壮年期以降の蛇笏は、秋という季節に、自らの心の在りように最も相応しい情感を感じ取っていた。俳句とともに歩んだ月日が、秋という季節に親近する思いを抱かせるに至ったのだと思う。

