陰暦8月15日の夜に雲が広がり、中秋の名月が見えないこと。雲に覆われていても、空はどこかほの明るく、月の存在を感じさせる。

陰暦8月15日の夜に雲が広がり、中秋の名月が見えないこと。雲に覆われていても、空はどこかほの明るく、月の存在を感じさせる。

晩秋の頃、柿の葉が紅葉すること。柿紅葉には、朱色、黄色、緑色の入り混じった独特の美しさ、味わいがある。

五月雨や年々降るも五百たび 芭蕉 『おくのほそ道』の旅中、元禄2年旧暦5月13日に平泉中尊寺に詣でての作。「五百たび」は光堂(金色堂)建立以来のおおよその年数。奥州五百年の歴史に思いを馳せての作であることは分かるが、句意がやや曖昧なのが難点。曾良の『随行日記』によればこの日は好天だった。芭蕉が五月雨を降らせたのは、実景ではなく詩の虚構だ。
五月雨の降り残してや光堂 芭蕉 改案により見違えるほど佳くなった。藤原三代のミイラを納めた光堂は、当時から四面を覆堂で囲い、甍を覆って風雨を凌いでいた。芭蕉は作品から覆堂を消し去り、雨を降らせて、雨と光堂の関係を直接的なものとした。五月雨の暗鬱さと煌びやかな光堂が対照をなしている。「降り残してや」の「や」が、その場に身を置いた芭蕉の感動の大きさを物語る。堂建立以来500年の歴史に対する感慨が沈潜し底流している。改案の時期は不明だが、作句における実景と虚構ということを改めて考えさせる推敲だ。
螢(ほたる)は、夏の宵、水辺の闇を明滅しながら飛ぶ。螢火の冷たい光を見ていると、忙しない日常から離れて、未生滅後のことに思いは広がっていく。
掲句は、螢の飛ぶ闇に囲まれて、生きることの意味や限界を新ためて自問している作品。「見える」は、この句では単に視覚に映るというよりも、認識するとの意味合いだろう。日頃何でも物が見えると思って生活しているが、実は人が認識できるのは、この世のごく一部分に過ぎない。大部分の事象は目に見えないまま一生を終わるのだ、と。『俳句』2023年11月号。
地中海沿岸等原産のモチノキ科モチノキ属の常緑小高木。別名ヒイラギモチ、セイヨウヒイラギ。初夏に目立たない花を咲かせた後、晩秋初冬の頃、実が赤く熟す。実のついた枝をクリスマスの飾りに用いる。なお、柊(ひいらぎ)の花は冬季だが、クリスマスホーリーとは別種。
